2012年8月10日金曜日
今日の想い 438
御父様は目を開けて眠る訓練をされたと話されている。人間は眠る時、心魂は肉体から離れて霊界の境界を超えて存在し、生きて心魂活動をする為の霊的要素を受け取っているが、眠る時は意識を外されているので認識されない。無意識の状態で霊界に存在している。しかし、御父様が言われる目を開けて眠る訓練とは、意識をもったまま霊肉の境界を超えて霊界に入っていく訳だ。意識的であるから霊界が認識され、霊界事情がわかる。前にも記したように、普通の人間は意識的に霊界を体験することは危険であるので、眠って無意識状態にあるのは現代人に取っては私自身を護るために大切な事だ。霊界に意識的に参入できるのはそれなりの精神的柱が立った者であり、予定もされ準備もされた者だと言える。昔の見霊者は数日間の仮死状態を経験させられて霊通人となることができたが、地上での生活に支障を来すために内外の支えを必要とし、彼らはそれなりの尊敬と位置を与えられていたから可能でもあったが、現代では気が振れているとして精神病扱いだろう。御父様の精神力、霊的主管力は並はずれていて、その素養はあったものの私達の想像を超える訓練、試練によって鍛えられたものであることは十分察知できる。御父様は人も状況も未来も見通される御方だろうかという低い次元で見霊力、霊通力を問題にして、それがないからメシヤではないとか、メシヤだけれども周りの者達に騙されているとか、そのような見方は霊も霊界についても完全に誤解しているし、御父様への偏見をさらに助長させている。外界を対象と見るような同じ対し方を霊界にもしているから、霊の本質、霊界の実態はいつまで経っても自分の中で明らかにはならない。私を中心とすれば外界は五感で感知する対象であるけれども、私の狭い内界で、狭い内的感性は幾らか備わってはいるとしても、霊界においては私は中心位置に立てない対象であって、霊的感性は中心位置にある主体とひとつになることで受け取れる感性であり、私が御父様の完全対象となれば霊的感性は既に備わってしまう。難しいが簡単な言い方にすると、地上では内なる私が外を見、霊界では外なる私を(御父様の目で)見ている。み言葉にあるように私達は霊界を背負って生きているのであり、リバーシブルの服のように内面に培ったものが霊界に行くと霊界の環境圏になる。無意識の意識化という言葉を誰かが使ったが、堕落によって愛の完成を見ずに自己自覚(意識)を備えたから、無意識圏にある真の愛の世界、膨大な霊界に踏み込めないし、自己自覚という鏡の役目を果たせない鏡でしか自分も世界も映せない。