2012年8月25日土曜日

今日の想い 445

イエス様が肉体を犠牲にされて、復活したイエス様となられて使徒達に訪ねてこられたように、肉体を生死の境に留められて、内的霊的に食口ひとりひとり全てに訪ねられる御父様であられる。毎日の日課とされ、当然のように続けられた訓読会にも御父様の御姿はなく、それを伝える映像も情報も届かなくて、それでも生活は何もないかのように続いているけれども、霊的には食口は今まさしく十字架の後の落胆して散り散りになった二千年前の当時の使徒達と同じ状況にある。食口それぞれが、私に訪ねてくださる御父様を内的霊的な深みで迎えることができなければ、私は御父様との関係を祝福血統の因縁、心情の因縁として血に刻み、心情に刻んではいない、ただの外的表面的地上的なものとして受け取ったにすぎないことになる。それで本当にいいのか。それで良しとするのか。その責任はそれぞれに委ねられている。私の復活問題、霊的に生きるかどうかの問題はそれぞれの責任分担だ。御父様がどれほど訪ねてこられ、手を差し伸べようとされても、私が手を差し伸べて御手を掴むかどうかは私の責任分担だ。御父様がそこまで踏み込んで関与されることはできない。外的な御父様がいつまでも存在されることはできないので、私達は今こそ内的霊的な御父様を迎えることができなけければ、外的御父様を中心とした今の心霊に留まったままでは御父様と私の関係性を自ら切り離さざるを得なくなる。十字架に架かられるイエス様を目の前にして涙する女達を見ながら、あなた達の後孫の為に涙しなさいと言われたイエス様だ。私達は御父様に対して人間的に心配し、人間的に涙するのも勿論だけれども、御父様の願いは私達が霊的な御父様との関係に目覚めることだ。それは私達ひとりひとりが内的霊的に御父様を内在させることだ。しかし余りにも私達は幼すぎる。そうなるには心霊基準があまりにも低すぎる。幼すぎて低すぎる私達はどうしても肉体を持たれた御父様を今は必要とし、どんな犠牲を払ってでも快復をこいねがうしかない。