2013年3月2日土曜日
後天開闢
遠い太古の時代、地上がまだ混沌としていて全ての輪郭が曖昧だったとき、人間の輪郭も曖昧だった。当時の人間の意識は地上に向いている時より霊界に向いている時の方がはっきりしていた。現代人は霊界へ向き合うときは眠って無意識に陥るけれども、太古の人間は地上に向いているときの方が眠って夢を見ているような状況であり、霊界へ向き合うとき意識が目覚めていた。統一食口は先天時代に於いては或る意味太古の人間のように夢の中で生きていた。三年で天国ができると本当に信じていたし、その地上天国も自分に都合良く描いた天国をそのまま信じていて、同じように霊界の地獄も地獄絵のそれとそう変わるものではなかった。最も夢でしかなかったものは、祝福二世に対してのイメージであり、聖人君子像を二世に期待していたことだった。先天時代に見ていた夢の靄(もや)を未だに掴もうとして生きている自分が残っていて、嫌がる子供も祝福式に連れて行けば霊界が降りてきて一瞬で変われるかも知れないと期待する私がいた。しかし基元節の門を超えながら、夢はもろくも崩れ去った。基元節を超えて後天開闢時代を迎えた意味は、統一食口が思い描いていた夢見心地から、聖水という冷や水を浴びながら目が覚めたことだ。皆は否定するかもしれないが私の基元節を超えた意味は夢からの完全なる目覚めだ。ノアの洪水、アトランティス大陸の消滅の後、太古の人間は夢見心地から覚めながら、霊的感性の遠ざかって行ってしまうのを寂しく思った。復帰された当時、地上天国という理想郷を食口の誰もが夢見ていた時代は、確かにその夢を食べながら御父様に繋がっていたのであり、しかし、これからの時代は地上の現実ではなく霊界の現実を踏まえ、しっかりと目を覚まして御父様の願いに応えていくべき時代だ。統一食口が夢見心地でいたように、この世もまた地上の平和、地上の幸福という夢を見ていた。見ているものは違っていても夢であることには違いなかった。私が基元節を超えて目覚めたように、この世も基元節を超えて信じていた地上の平和、地上の幸福という夢から目覚めることになる。執着していた全てのものが、平和であり幸せであったと思える認識が、空しく流れ去るものだということに目覚めてしまう。本質に繋がった者には後天時代こそが建設の時代であり、創造の喜びを味わう時代だとわかるけれども、本質に繋がっていない者にとっては、形あるものや信頼していた認識が崩れ、不安と恐怖の時代が始まった。
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