2013年4月21日日曜日

今日の想い 556

店では何人かの食口を雇っているが、中にはアベル型の食口もいればカイン型の食口もいる。勿論御父様を受け入れ良心的であればアベル型だという訳ではない。最初はレストラン教会としての摂理的な願いがあって出発し展開していったが、経営力の弱さが拠点を減らしていって、十数件だけとなった今の店は摂理への経済的な援助が主になっている。経営能力の弱さと敢えて言ったが、なかんずく教会関係のビジネスは経営能力の弱さが仇になってなかなか発展しない。ソロモン時代はアベルが祭司集団でカインが石工集団だと述べたが、経営能力は地上的叡智の部類であって、よってカイン型の人間が得てして実力はある。如何せん教会食口は特に祭司型でも石工型でもなく、キリスト教(アベル)が御父様を受け入れなかったが故の二次的摂理として集められた群れであって、アベル型だカイン型と言えるほどの天の叡智に富んだ者もいないし地の叡智、この世的実力に富んだ者もいない。アベルが聞いて落胆するだろうしカインも一緒にしてくれるなと落胆するだろう。しかしそれでもどちらかに分けられる。どちらかに分けられるとなると俄然アベル型で、それは実力が無いどころかこの世に解き放たれれば必要もされない者多数で、そうなると信仰を持たざるを得なかったと言う意味でアベル型だ。敢えて言うなら乞食アベルだ。以前100件近く店があった当時、中心の方針に合わせることができずに出て行った食口もいたが、それは実力があってそれを認められず出たと言うより、棄てられて当然の小石のひとつでありながらも御父様に拾われた恩を忘れて、自分には実力があるかのような錯覚を覚えてしまった、敢えて言うなら乞食カインのなれの果てだ。兎に角そんな私達が祝福を戴いたという事実は余りにも畏れ多く、その謙虚さを常に忘れずにいることが拾われた者の最低ラインの態度だろう。御父様が聖和されて残された私達は、外に見ていた御父様を私の内に見て立たなければならず、或る者は天の叡智を受け取る本アベルとなるべきであり、或る者は地の叡智を司る本カインとなるべきであり、そうして両者が御父様の願いを中心としてひとつとなれば初めて国も世界も我々を中心に動いていくはずだ。伝道祭司摂理を担当するのであればアベルとしての本分を果たし、政治経済摂理を担当するのであればカインとしての本分をまず果たさなければ、店の経営に本腰を入れなければならないのに教会活動を適当にかじって見たり、或いは教会の建て直しに本腰を入れなければならないのに生活事情を優先してしまって余力での歩みとなる等、今までと同じようにどっち着かずだ。

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