2013年4月9日火曜日
今日の想い 553
御父様が聖和され、寒い冬が去って暖かい春が来た。御父様が聖和されても、去年と同じように桜は咲いた。季節の移ろいや自然の摂理は、み旨や復帰摂理とは何の関係も無いように、決められたプロセスを粛々と踏んでいる。御父様が聖和されれば太陽は陰り、天の叫びは大地に轟いて、ひとしきり悲しみの涙雨が降り続くのかとも思った。イエス様が最後の息を引取ったとき、天地の帳が引き裂かれたように、御父様が聖和されれば何某かの印(しるし)でもあるのかとも思った。別に期待していたわけではないけれども、結局印は何も起こらなかった。人類始祖アダムとエバが堕落しても、ノアのときに大地を沈める大氾濫が起こっても、さらにひとり子であられるイエス様が殺害されても、星々は同じように運行し、大地はやはり季節を繰り返す。この宇宙もこの自然も、無機質で生命も感情もない機械的システムが当たり前のこととして繰り広げられているが、果たして本当にそうだろうか。唯物観の見方を当たり前のこととして生きてきて、何の感情も覚えずに光を浴び呼吸もしているけれども、しかし私達は明らかにその懐に包まれて存在している。宇宙が、自然が、その声を発しその感情を表さないのは、それらが唯物的だからではなくて、実は私達が唯物観に毒された感覚で対しているからではないだろうか。この一日もこの時間も、一瞬たりとて創造できない私達が、自分の観を当然のものとして対しているのは宇宙や自然に対する冒涜とは言えないだろうか。宇宙や自然は堕落的な私達の観に呆れ返って、言葉をかけることも、その感情を表すことも頑なに拒んでいるのかも知れない。御父様が聖和されたとき、太陽は落胆してその日一日でも翳りたかったはずだ。天は悲しみの叫びを大地に轟かせたかったはずだ。大地を震わせてむせび泣きたかったはずだ。しかしその感情を押し殺して新しい一日を創造し続け、同じように夜昼を交代させ、同じように季節の移ろいや自然の摂理は、決められたプロセスを踏んでいった。今年も暖かい春が来て、桜が咲く。同じように春が来て、同じように桜が咲く。しかし喪にふしていた深みの位置から見るなら、数倍の犠牲が同じような風景の為に投入されている。御父様がこの地上に生きて宇宙と自然に触れられた事実は否定の仕様が無い。その手に触れられ、その肌に感じ取られ、その目で愛でられた。この宇宙は自然は初めて、御父様をして神様に見(まみ)えることができた。或る意味初めて感情が宇宙と自然に刻印されたのかも知れない。
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