2013年4月22日月曜日

今日の想い 558

私は今、道半ばで立ち止まっている。そしてこの道の先に何を期待して選んだ道なのか、思い起こしている。私は安住の場所を求めてこの道を選んだのだろうか。確かに今、道半ばでありながら、道の先を見ずに周りに目をやり、腰掛けて安住できる場所を探している。しかし我に返って尋ねれば、それがこの道を選んだ目的ではないと内から声がする。決して安住の場所でもなければ、景色の良い風景を期待した訳でもない。安らぎや慰めはどうだろうか。信頼はどうだろうか。確かに期待したもののひとつではあるかも知れないが、それがこの道を選んだ決定的なものではない。ではそれは愛だろうか。愛を求めてこの道を選び、この道の先に愛を期待しているのだろうか。愛とは与えることだと言われ続けているのに、そうであるならどうして愛を求めてこの道を歩み続けるのだろうか。来た道を振り返ってみても、愛として受け取ったものは見当たらない。いつも阻害され、否定され、けしかけられ、追求され、そして押し出されてきた。それらが愛だと自分を言いくるめても、果たして納得できるだろうか。おそらくみ言葉には愛という言葉が最も溢れていて、この道に愛が関わるものであることは理解できても、誰も我先にとこの道を突進しないところを見ると、私が思い描いた愛とは別物の愛が関わっているはずだ。私が思い描いた愛でなければ、別物の愛、それを御父様は真の愛と置き換えられているようだけれども、その真の愛とは阻害され、否定され、けしかけられ、追求されることだろうか。私にとってはそれらは犠牲であって、その犠牲が結論なら、もはやこの道を歩み続ける意味はないだろう。軌道修正し、せめて周りに目をやって安住できる場所を見つけたほうがいい。でも今までの歩みで、犠牲を供えながら受け取るものが確かにあったはずだ。それは涙という形を取り、涙として流れ出る心情だ。確かにこれが与える愛だと愛を与えている感覚もなければ、受け取る愛も愛としての実感はないかも知れない。振り返れば愛であったと御父様が話されるように、その時点では、愛とは実感されておられないと言うことだろう。でも心情は実感だ。涙として流れ出れば実感として心情がある。私は愛に仕えて侍りながら、心情を受け取るためにこの道を選んだはずだ。そして犠牲は、心情を受け取るための犠牲だ。私はそう納得してまた歩み始める。歩みながら、犠牲として供えるものを抱えきれなくなってくると、受け取る心情が間近に用意されていることを知るようになる。涙が流れて、心情の伝授式がその場で執り行われる。

0 件のコメント: