2013年4月19日金曜日

今日の想い 555

御父様は私達に対して、それぞれの私という氏族メシヤを中心として160家庭の復帰を要求された。御父様が聖和されてもその願いは変わらない。160家庭復帰が入籍の条件でもある。地上におられる間は事ある毎に強調され、そしてその度に私はうな垂れた。長い信仰路程の殆どが経済摂理だったが、入教した当時は路傍伝道も行い、IOWCがやってきて彼らと帯動もした。しかし実は実らなかった。復興会に誘うことさえ出来なかった。その時私を介しては復帰されるはずがないとまで思った。ましてや白い目で見ている親族の復帰だ。万物復帰にはトラウマがあるけれども、伝道は伝道で全く自信が無かった。万物復帰に触れられても、伝道に触れられても、どちらでも私はうな垂れる。うな垂れているばかりの私が恥ずかしげもなく氏族メシヤだと言う。できないと早々に諦めて、着かず離れずで生き延びるしかないだろうに、しかし私の中で自分を押し出す何かがいて、どう足掻いても諦めさせはしない。為せなければ存在する意味もないとまで責められてプッシュされる。私が安住する環境圏をぶち壊してでも私をみ旨に向かわせ、カインの自分に言わせれば何とも卑怯な手を使ってくる。だから実績の無い恥を晒してでもついて行かざるを得ない。み言葉に照らし合わせれば、私達氏族メシヤはイエス様の立場であるけれども、もし勝利できなければ堕落したアダムと同位置で、三大祝福の恵みを人類にもたらすべく期待されたアダムが堕落したのと同じように、私は祝福の恵みを氏族圏にまで広げることはできない。そうなると氏族的再臨のメシヤを将来的には迎える必要性もあるのだろうか。そんな出来ないことを前提に思考を働かせるのはどうかとは思うが、うな垂れたままの道行く先は所詮行き止まりだ。ちなみに御父様が語られた私達の三大祝福は教会祝福、国家祝福(南北統一時代祝福)、そして世界祝福(世界統一時代祝福)だ。しかし祝福は戴いてキープしていれば良しとされるのではなく、祝福は種であって、育てて成長させ花咲かせ実らせるのでなければ何の為に戴いたのかと言うことになる。氏族メシヤである私がうつむいたままでは霊的現実から目を逸らし逃げていて、そうなると氏族圏は霊的に路頭に迷うだろう。さあ、、それで私はどうする、、。どうしたい、、。氏族メシヤという言葉だけが頭にこびり付いて、寝ても覚めても私の感情は解放されない。

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