2013年4月23日火曜日
花々の咲く時期に
陽は既に高く上っている。外に出てみると、車のボンネットの上やフロントガラスが黄色い。運転席につくと見通しが悪く、洗浄ワイパーをかけてやっと黄色い覆いを払いのけた。花粉の季節だ。そして花の季節だ。花という花が咲き乱れて花粉が舞い上がる。光が煌きこぼれる大空に向かって、全ての花が咲き競う。植物は人間とは逆だ。頭である根を下にして地中に埋め、性器である花が上部にあって天に向かって開く。本当は植物の方が真っ当な姿で、人間が逆になっているのかも知れない。花である植物の性器は見るに美しく芳香を放っている。何の恥じらいもなく色とりどりの性器を開いて誇っている。人間のそれが美しいかどうかは敢えて論じない。秘すれば花と言うに留めておく。しかし人間の性器を蛇の頭であり蛇の口だと言われれば納得する。アダムとエバは性の器官で堕落した。御父様はエバが上に乗ったと言及されたことがある。天地無用であるべきエバが天に向かって開かず地に対して開き、蛇の頭を宛がった。自我の目覚め、霊の目覚めの頃のエバと蛇の誘惑が同時期だったように、思春期と性の発育は同時期だ。そして春の季節は閉ざしていた心魂が開いてきて霊が働きかけ、新たな発想、新たな感情を受け取る。しかし受け取る発想や感情は、地の霊に対するものもあるし天の神霊に対するものもある。神霊に対するものを受け取る開拓者はイエス様であったし、だから春の訪れと復活祭は同時期だ。エバが先ず霊的に堕落したという意味を深く尋ねるべきだ。霊的に堕落し肉的に堕落した順番はその通りだとしても、霊的無知であり霊的な認識のない私達は、霊的なものも肉的なイメージで捉えてしまう。エバが霊的堕落にどう関わったか、、。そこにエバの自由意志の関わりを見るべきだ。あらゆる情報はルーシェルから与えられているけれど、意志はエバが立てる。どう発想するか、どう感情するかは私の意志がその選択をしている。私達は未だ自分の環境を堕落圏に置いている。私達は無意識のうちにこの社会環境から誘惑されている。そして霊的に堕落している。自分は間違いを犯していないと言い張っても、しかし無意識のうちに霊的に堕落している。私が環境に対してどう意志するか、実はその選択が霊的堕落と密接で、私の結果的なみ旨に対する失敗の墓標は、意志を地に開いてしまい、天に対して開けなかった、すなわち天から来る神霊を受けて受胎できなかった霊的堕落によるものだ。私の肉体の性器は下にあるけれども、神霊、ロゴスとして受け取る内的霊的器官は常に天に向けて開くべきだ。色とりどりの花が大空に向かって花開いているように、私の色とりどりの慕う想いも、花々に負けず天に向けて花開く。
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