2013年4月21日日曜日

今日の想い 557

病と言う名の蕩減が妻の踵(かかと)をかじって離さない。踵をかじられる妻の内外の痛みが次は家庭の踵をかじっていた。病から開放される希望だけを胸に、彼女の意識は健康を取り戻すことだけに集中されてきた。何年もそうしてきた。彼女にすれば健康を取り戻したい感情は当たり前のことで、しかしその感情の中に、願いや希望という言葉に摩り替えられた彼女の執着が居座っている。それは敢えて周りから進言すれば裁き以外の何物でもなく、彼女自身が悟れるように待ち続ける以外はなく、そのことを気が付かずに年を重ねていった。何年も経たここ最近になって彼女の内面の変化が感じ取れた。それは先ず諦めから始まった。その諦めは、かつての揚々とした健康状態には二度と帰ることはできないという認識だった。それから甘受だ。いつまで生を繋げるかわからないにしても、生ある限りはこの病と共存するという受容だ。そうして意志だ。それは健康を取り戻す意志ではなくて、踵にかじりついて離さないこの病を通して天の父母様の心情を受け取るという意志だ。逃れられない病に健康への執着をもって対していた彼女は、今初めて、この病に天の心情を受け取る意志でもって対した。疫病神としての病の裏の顔ではなく、病の善の顔、善神の業の働く表の顔に初めて向き合った。私は彼女のこの変化がたまらなく嬉しかった。家庭にかじりついて地獄まで引き摺り込まれると思っていた疫病神が、かじりついた踵を逆に引っ張り上げられて、頭からではなく踵から逆向きに善なる影響圏に連れて上がってくれる善神に変わった。もちろんこれで彼女や我が家がハッピーエンドとはならない。病に対する霊的峠を超えて下りになりはしたが、病がどこかに消えて失せる訳ではない。更に天から見れば多くの払うべき蕩減、全うすべき責任分担が目白押しだ。それでも、執拗に責め続けられて、後ずさりし続けていたのが、これからは前進することを覚えた。それは数年を経て妻が獲得した偉大な霊的叡智だ。

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