2013年4月26日金曜日

店について

レストランという形態を取って活動しているけれども、この出発点の起源は何処か。それは御父様であることは間違いない。御父様が起源であり、御父様の願いに沿って資金と人材が投入され、それは形だけの投入ではなく精誠が投入されていることをしっかりと見なければならない。御父様の願いというけれども軽いものではなく重い御父様の祈りが投入され、そしてその祈りに動員されて皆の尊い精誠が資金と人材という形で投入されている。今日まで営業を続けてきた根底には祈りと精誠が脈々と流れ続けて来たのであり、御父様が聖和された今でも、いや、御父様が聖和されたからこそ尚一層、マグマの如くの祈りと精誠の、統一家の想いのグラグラ煮えて爆発噴火する衝動を、知って悟って感じて形に変えていくべきだ。従業員の中には食口と呼ばれる従業員も数人いる。彼らがどれ程の、そういった店としての内的霊的生命を感じ取っているかはよくわからない。おそらく教会の息のかかった店だという認識はあっても、それは雇用の入り口にしかすぎず、それ程の重いものを背負って働いてはいないだろう。教会活動とこのレストランで働くことは彼らの中で別個に捉えられていて、教会は信仰と結び付きレストランは生活と結びついて、働くことに信仰は介入されない。頭と表面的気分ではみ言葉を受け入れてはいるが、心魂の深みには依然と唯物的なものがしっかりと息衝いていて、そこにメスを入れようとはしない。ある面、教会と全く関係のない働き口を見つけて厳しい環境の中に入る方が、心魂の深みを掻きまわし自分の本質を抉り出すという意味で本当の信仰に目覚め、本当のみ言葉の価値に出会い、御父様との本質的な関係が持てるだろう。私はいつも悩んでいる。そういう動機で彼らを出すことに何のわだかまりもないし用意はできているが、おそらく彼らは理解できず、甘受できず、恨みにさえ思うだろうし、もし外で働く気概もなくなっていて家庭に波でも立てるなら尚更だろう。店としても、私を含めたそれぞれの従業員も、痛みを伴った大きな転換点に立っている。

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