2013年4月7日日曜日

み言葉を弄んではいないだろうか

み言葉をここまで捻じ曲げ、あらぬ方向に理解が向かうのを何の躊躇もなく公開して、本人は恐ろしく思わないのだろうか。私には頭だけが巨大化した怪物に思えて、いつ破裂するのか心配でならない。霊界に巨大化した頭を持っていくことはできない。頭を切断され、手足も切断され、更に鼓動する心臓も奪われて、それでも残るものを携えて霊界の中心に向かっていく。思考感情意志という心魂活動さえもそこに堕落的要素があって霊界の中心で輝く愛の太陽、心情の太陽に焼かれるものは携えて行くことはできない。焼かれたくない執着があれば光の届かない霊界の隅に留まって、愛の空気の薄い呼吸に甘んじなければ存在すら許されないだろう。普通はその場は地獄に括られる。私達はみ言葉から理屈を取り出すのではない。み言葉から天の心情を取り出し受け取る。論理攻め、理屈攻めの文体には何の心情の香りも漂ってはこない。彼はどんな祈りをするのだろう。立て板に水のように言葉はその口からほとばしっても、御父様と尋ねる一言に万感の想いが込められ、嗚咽に遮られて言葉が出ないほど、御父様の心情の深みに沈んでいった体験があるのだろうか。み言葉を知識としてどう理解するかも確かに大切だが、それは悟性人間が天の心情へと導かれるための橋に過ぎず、たとえ誰からの反論も喝破できる強固な橋を用意したとしても、その理解を通して天の心情に導かれるのでなければ、そして理解することだけに相当の精神を費やすようなら、そんな橋は私には全く必要が無い。論理的に理解することで完成し、み旨が為せるならそんなに容易いことは無いが、そうでないことは火を見るより明らかだ。これこれの理由でこの理解が正しいと相手を喝破するとして、そこには自己満足と生命のない乾いた理屈の白骨が横たわるだけだ。

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