2013年4月8日月曜日
私の中のカインとアベル、そして真の愛
真の愛には犠牲と精誠が伴う。犠牲と精誠が伴わなければそこに真の愛は関与されない。私達は愛という言葉を実に気分的に認識している。与えようとすればそこに愛は関与するのかも知れない。子供に対してこれだけしてやったのにという親の思いがあるが、それが自分の思い込みではなく、本当に真の親の愛として関与されたのかどうかは、そこに犠牲が込められてもそれを良しとするかどうかだろう。犠牲をして真の愛かどうかを試されるのだろう。親の思うようにいかなくて親として痛みを抱えるとしても、その痛みを良しとして受け止め、それこそが子を愛することだとの想いがぶれなければ、それは真の愛に昇華されると言えるだろう。誰しも痛みを快くは思わない。痛みから逃れようと躍起になっている。夫婦になって相手ゆえに痛みを負うのであれば夫婦になりたくはない、とか、子供を産み育て子供ゆえに痛みを負うのであれば家庭を持ちたくはないとの思いは、自分は痛みを排除したい、犠牲になりたくはないとのカインの叫びが込められている。痛みを快くは思わない自分と、この痛みこそ天の父母様がそれをして共にあり、共にあれば真の愛も共にあると思える自分と、この二人の自分、カインの自分とアベルの自分が存在している。もちろん自暴自棄になってカインの自分をとことん貶めることが良しとはされないが、アベルの自分がしっかり立ってカインの自分を説得すべきであり、時としてアベルの自分がカインの自分に譲歩すべきこともある。私達はカインの末裔だ。だからカインの声はよくわかるし、先ずカインが先行して自分自身だと名乗り出る。私達は御父様と共に摂理を担いながら、御父様の指示に対して先ずカインの自分が顔を出してくることはいつもその通りだった。或る者は私のようにカインの自分がいつまでも私の主体に居座り、そして或る者はアベルの自分が直ぐにもカインの自分を説得して、御父様に決意と覚悟を差出した。御父様に訓練された私達は、為に生き犠牲と精誠を供える群れではあるけれども、私の中に中心である御父様をはっきりと立て、そして闇雲に犠牲を叫ぶのではなく、アベルの自分、カインの自分を明瞭に把握して、カインの自分を説得し更に一体化しての上での犠牲でなければ、私は霊的な歓びには至らず、犠牲という怪物に振り回され、私が私自身を貶めていると誤解するようになる。多くの離れた食口はその罠にはまっている。私の中のアベルとカインが一体化して捧げた犠牲という供えものは、天の父母様が受け取り、真の愛が流れ込んでくる。私は真の愛の香りや味をそこで本当に味わうことができる。それはカインの自分をも復活させて余りあり、天国を自分に引き寄せる。
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