2013年4月4日木曜日

私という霊の存在

人間は肉の存在でもあり、心魂の存在でもあり、そして霊の存在でもある。肉の存在であるという認識はある。心魂の存在であるという認識もはっきりとある。しかし霊の存在だという認識を説明できる以上のものとして把握しているかと言うと非常に疑問が残る。悟性の理解がそのままはっきりとした認識の把握とはならないと言うところが、実に曖昧で心魂的であり更に受動的だ。それは主体的で能動的位置にある霊的存在だとは言えない。霊の存在であるという認識は、主体的能動的に創造に加担している私となって始めて、私が霊の存在であると認識し始める。この地上にある有形無形の存在をして組み合わせるのは全てルーシェルの知恵であり、地上の叡智はルーシェルの光に拠っている。しかし創造は天の叡智、ロゴスによって為される。私達がみ言葉を、創造できる天の叡智として受け取るかどうかが私が霊の存在、精神の存在と言えるかどうかであり、霊の存在としての認識もそこにある。人間は本来、神様と同様に創造できる存在として創造された。エバを分化させる前のアダムは言葉を持っており、即ち創造できるロゴスを持っており、更に肉体を持った人間存在の授精受胎機能も持っていたはずだ。しかしエバを分化して間違いが起こった。授精機能をアダムに残し受胎機能をエバに備えたけれども、エバはアダムと一つになるべきものを創造に加担したルーシェルと一つになってしまった。エバは受胎機能を持ちながらも創造できる叡智、ロゴスを失った。地上の人類は肉と心魂に関する限りは全てカインの末裔だ。創造の叡智ロゴスを失った存在だ。私達が霊の存在である為には御父様に繋がり、み言葉で造り変えられ、創造の叡智ロゴスを取り戻さなければ霊の存在だという認識は永遠にやってこない。堕落圏に留まってカインの末裔である以上、実は霊の存在とは言えないからだ。私がみ言葉で造り変えられなければ御父様が語られた霊的事実も理解できないし、どんなに頭をひねろうが論議しようがみ言葉のうわべだけをなぞって分かろうはずもない。

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