2013年4月5日金曜日

今日の想い 551

御父様が歩まれた道は天宙の再創造の歩みだ。蕩減復帰の歩みを超えられて再創造の歩みを為された。よって、今天宙は再創造された新天宙だ。新天宙には新アダムとしての御父様が立たれ、新エバとしての御母様が立っておられる。御父様と御母様が一体となられ、神様の結婚式が為され、神様は天の父母様となられた。神様が御父様とひとつになられ、御父様が御母様と一つになられたのであれば、御父母様は神様が結婚された実体であり、その神様が結婚された実体を私は見ている。しかし基元節の結婚式で私が見たのは御母様おひとりだけだった。隣におられる御父様が見えなかった。勿論、肉体はもはや持たれてはおられないが霊的実体として立たれておられるのはその通りだとしても、私の目には御母様おひとりだった。私の目に見えようが見えまいが為されたのは確かだけれども、それでも基元節には御父母様が両隣で体を持った実体として立たれておられるのを見たかった。第一のアダムは堕落し、第二のアダムはアベルの如くに殺害された。そして第三のアダムである御父様は勝利したアダムとして立たれた。立たれたけれども私の目に体を持たれた実体として神様の結婚式の場で見ることはなかった。その意味を食口の誰もが尋ねている。しかしその答えを生きた御父様の口から受け取ることはもうない。御父様の口は霊的なものとなってしまい、霊的に尋ねること、即ち私達がみ言葉で造り変えられた私を見て、そのみ言葉で再創造された私の口からしか受け取ることはできない。その答えは私に委ねられ、私次第で受け取ることができるかどうかが決められる。その意味でも私は第四のアダムなのかも知れない。私の中に堕落した第一のアダムがいて、殺害された第二のアダムがいて、勝利された第三のアダムが息衝き、実体を持った私は第四のアダムとして全ての答えを得ようとしている。全ての答えを得て、全てを花咲かせ、全てを実らせる。教会内の政治的なものも、み言葉の論理的理解や解釈も、生活向上の為の万物金銭の取り込みも、それらは二の次、三の次の事柄であって、主要的事柄は私の完成形を見ようとすることだ。み言葉を霊的なもの、私を再創造する叡智ロゴスとして受け取れないのであれば、御父様は私をして花咲かせ実を実らせることはない。

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