2013年4月28日日曜日

今日の想い 559

永生という概念は生命から来るものではない。この生命が永遠でありたいと思っても、現実人間は死ぬし、この私という生命は付き果てる。人間の永遠の生命への憧れという感情は、儚くも付き果ててしまう。多数の食口の大きな誤解は、霊界という場所に永遠の生命があるものと期待している。場所を移しての生命という観念でもって、その観念は地上生命の延長線でしかなく、はっきり言ってそんなものは霊界にはない。事実として認識すべきは永遠の生命はないのであり、生命は果てるものであり、霊界は生命の延長ではない。霊界に地上的感覚の永遠の生命はない。それでは永生という概念はどこからくるか。それは神様の対象的愛の位置に立ち、真の愛を受け取れば、永生が属性として備わる。よって限りある生命を生きているうちに、神様の対象的位置で真の愛圏内に生きることを学び、そうすることで真の愛としての属性、永生が備わる。原理で学んだ霊界という事実が、どういう訳か死という不安の払拭材料としての認識に留まり、より為に生きて真の愛圏内に生きようという意志が発動されるに及ばない。真の愛圏内に生きるとは、それを敢えて地上的感覚で表現するなら、生命細胞のひとつひとつを愛の細胞に変える、感覚器官を真の愛の器官に変える、更にこの生殖器を中心としたエロス肉欲感覚器官を真の愛の器官に変える、この肉体が真の愛の身体として透き通り光輝き、重力からの支配を脱する身体に変える、そういう地上的表現なら真の愛圏内に生きるという意味から当たらずとも遠からずの意味合いになるだろう。祝福家庭と一般家庭の違いを理屈では説明できるとしても、その違いを具現化させているかというと、昔は馬鹿がつくほど希望的であったり献身的であったりした食口達も、家庭となると一般家庭との違いを証しできるに至っていない。氏族圏の為の家庭、国の為の家庭としての家庭の希望、家庭の献身が差し出されない。個として御父様の願いに殉ずることを決意した食口は少なからずいるけれども、真の家庭として具体的に犠牲を供えてきた内容を、自分の家庭にも受け入れる決意もあり、事実犠牲を供えていると断言できる祝福家庭がどれだけいるだろうか。真の愛圏内に生きるということがどれ程大変な事か。しかし私達にはその道が残されている。教会雑誌に見る家庭団欒の挿絵は、幼い食口に向けての家庭が大切だという教育材料にはなり得ても、御父様がみ旨の為に御家庭を犠牲にされてこられた、その御家庭の生々しい傷を今も曝け出しておられるのとは不釣り合いで、その「為に生きる」家庭の在り様を自分の家庭に受け入れてでもという決意にはなり得ない。個は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は、、、というのが真の愛なら、家庭第一主義に固執するならそれはみ意ではないだろう。真の愛の道を前進し続けるなら、個が犠牲となり、家庭が犠牲となり、氏族が犠牲となり、民族が犠牲となり、国が犠牲となるのであり、家庭に留まり家庭の犠牲を拒むなら、真の愛の道を前進し続けているとは言えない。

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