2014年3月2日日曜日

先天時代と後天時代

先天時代と後天時代はどう違うのだろうか。その違いがわかり、後天時代に入って多大な恩恵圏に入った私だと認識するに至っているだろうか。簡単に言うなら、その違いがわからないと思う者は、地上的な感性を主体として存在しているか、或いは地上的感性しかないと思って存在しているかのどちらかだろう。逆にその違いを認識する者は、霊的な感性を主体として存在している者達だと言うことができる。地上は時間と空間の枷がはめられて存在する物質世界であり、人間にとっては感覚世界だ。地上に存在している全ては時間と空間の法度から逃れては存在できない。それが、肉体を貰ってそれを着て生きているという意味でもある。肉体を着ているけれども私とあまりにも一体化している為に、肉体=私という観念で生きている者達が殆どだが、その観念で生きている以上、先天と後天の違いはわからない。肉体=私という観念は横的観念であり、完全にその観念に縛られると、心が上の位置であり体が下の位置にあるという縦的観念は導き出せない。人間それぞれが生活している基である観念に焦点をあてて先天時代と後天時代の違いを見るなら、地上に於いてはこの横的観念の揺らがなかったものが縦的観念が導き出せるようになったことを意味している。要するに心、更に言えば良心が主体であり、良心が上の位置にあって肉体が対象であり下の位置にある。この縦的観念が導き出せれば縦的に更なる広がりを見い出せ、良心が対象の位置で主体であり上にある存在を求めていける。良心の主体である神霊存在(神様?)を見い出せれば、肉体=私という観念から地上的空間世界しか認識しなかったものが、神様の頂点までに至る縦的な各段階(位相)に於いて横的な広がりの世界を認識していける。地上の現実にも生きるけれども段階的霊的事実のそれぞれのステージにも生きるという、立体的に生きる私に生まれ変わる。霊界があることは原理によって認めるけれども、地上的喜び、地上的幸せだけに執着して霊界や神様に地上的な事柄だけを要求し、霊的喜び、霊的幸せを無視するのであれば、肉体=私という観念で生きているこの世の者達と何ら変わりない。変わりないどころか原理を、御父様を、サタン的に利用していると言われても返す言葉がない。しがみ付いている地上的なものは抱える手を緩めて放してやるべきだ。犠牲は、抱えているものを無理矢理取り上げたなら、天が受け取れず祭物にはなれない。しかし執着を捨て、犠牲が祭物として供え物になるなら天は受け取り、換わりに思いもよらない贈り物を用意されるはずだ。胎盤にしがみついて生きていた胎児は、胎盤を放つことで新たな次元へのトンネルを潜り抜ける。地上という次元内であっても、私達は執着の一つ一つを捨てながら、新たな霊の段階へとステージアップしていく。最終的に地上人間は、地上界という胎盤を放ち、時空を超越した天上天国への次元トンネルを潜り抜ける。

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