2014年3月31日月曜日

今日の想い 716

自分流にいうなら、言葉は並べるものじゃない。言葉は打ち込むものだ。相手の心魂に打ち込んで、その奥に潜む霊を言葉の切っ先で捕らえるものだ。人間の精神存在としての力はこの言葉にある。長々と言葉を並べても、それは力とはならないだろう。伝えるために言葉を並べようとすればするほど、言葉の抜け殻しか残らない。だから打ち込める言葉を持つために、力となる言葉を持つために、言葉に力を混入させる方法を見出す。それは物事を、経験を、どう霊的に捉えるかで言葉に力を混入できる。誰もが味わうであろう一般的な喜怒哀楽も広くは経験かも知れないけれど、喜怒哀楽という心魂作用に留めて終わるのではなく、心魂作用の奥にあるものに触れて初めて霊を経験する。それは現実に対処する心魂が、現実に対処しきれないほどの状況になることで心魂の奥にあるものを求めていくのであり、一般感情として受け取る範疇を越えなければ霊を経験することは先ず無い。しかし霊を経験した者の言葉には力が混入される。相手の心魂に打ち込んで、奥に潜む霊を捕える力がある。全ては言葉でできている。それは私が言ったのではなく聖書の言葉だけれども、その言葉は私達が日常使う平面的言葉、すなわち並べる言葉ではなく、打ち込む言葉のことを言っている。次元にひびを入れて地上の次元に届いた言葉だからこそ言葉が地上で実体化している。私達が夢の実現、理想の実現を形にするとき、打ち込む言葉を持たなければならないのであり、逆に言えば、打ち込む言葉を持ちさえすれば夢も理想も実現する。と思っている。私にはあれがないこれがないと数え上げるけれども、何がなかったとしても打ち込む言葉さえあれば実現する。言葉に対する本当の概念を得ていくことができれば、全ては言葉で出来ているので、地上のあらゆる概念を私の中で覚醒させることができるだろう。要は心魂から霊への突破であり、心魂が沸点温度に達すれば霊に届くことができる。沸点温度に早く達する為には熱の受容度を増すことであり、心魂にとっての受容度増加とは真の愛の投入だ。すなわち精誠であり犠牲だ。

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