2014年6月20日金曜日

今日の想い 756

み言葉に対する百の論理や百の解釈よりも、神様を想う一筋の涙の方が遥かに尊い。み言葉を訓読して涙の御心情を尋ねる意志を覚えないとするなら、それはいつも言っているように、み言葉の本質ではなく鞘の部分をなどっているに過ぎない。み言葉の本質は心情だろう。言い方を変えれば涙だろう。涙は理屈では流れない。確かに減少感からくる涙もあれば悔し涙もある。それ自体は自己を愛する涙かもしれない。しかしそうであったとしても、そういう涙も理屈では流れない。自己を愛する涙であっても涙は涙で美しい。それは神様御自身が涙を流し続けてこられたからだ。あまりにも泣かれて、あまりにも涙を流し続けてこられたから、神様は涙そのものになられてしまった。だから誰でも涙を流せば、その涙自体が神様だ。自己を愛する涙だろうが、他を愛する涙だろうが、そんな区別もつかないほどに神様は涙そのものになられた。もし統一食口以上に涙を流してきた者がいるなら、神様は食口と共におられる以上にその方と共にある。涙を流してきた方に対しては、私達は素直に頭を下げるべきだ。道端にでも涙を流している者がいるなら、心情を語る食口であるなら素通りすべきではない。電柱を抱きしめてまで涙を流されてきた御父様であり、襦袢がぐっしょり濡れるほど一晩中涙を流されてきた御父様であり、その御父様を慕い侍る息子であり娘であるなら、あらゆる生活の場面に御父様の涙を感じて、共鳴するように涙を流す者となって当然だ。夫婦の間に涙はあるだろうか。親子の間に涙はあるだろうか。食口達に会えば涙が流れるだろうか。もしそうではない私であるなら、私の中には冷たい血が流れている。冷たい無機質の血が流れている。私が涙を流すとき、私の中には暖かい血が流れているのを感じる。生命溢れる躍動の血流だ。訓読しながら涙を流し続ける姉妹がいる。み言葉の理屈は何もわかっていなくても、彼女はみ言葉の本質を受け取っている。み言葉の本質は心情だ。そして神様の涙だ。

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