2014年6月20日金曜日

天使長が外的だという意味

「神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造された。」「天使と人間が創造された順序を見ても、外的な天使長が先で、内的な人間が後であった。」(第五章メシヤ再降臨準備時代、第一節より)原理にはっきりとそのように書いてある。天使長は外的であり人間は内的だと、、。天使長は霊的存在であり肉眼では見えない存在だ。その霊的存在を外的だと言う場合、人間の肉身に対して外的だというのではないはずで人間の何に対して外的だと言っているのだろうか。私達は霊界と霊の存在に対して余りにも穿った見方をしている。はっきり言って私達は霊的無知であるから、無形実体世界である霊界や霊人体を説明されても、あるいは霊的堕落に始まる霊的な事柄を説明されても、取り敢えずは想像として理解する以外ない。しかし霊的知を復帰しながら想像から霊的感性による理解にかえていくようになる。私という存在を概観すれば、生きた肉体が存在しており、肉体の他に知情意の活動を為す生きた心魂が存在しているのはわかっている。しかし心魂はそのまま霊とはならない。御父様が「魂と霊を混同している。魂と霊は違う。」と話されたとおりだ。肉体があって心があるというのが唯物論者の認識であり、心魂があって肉体があるというのが唯心論者の認識であり、霊があって心魂があって肉体があるというのが宗教者の認識であり、み言葉の観点に立つと肉体には肉心があり霊人体(霊体)には生心があって、本来は神が臨在される生心に肉心が呼応して肉体を動かすのであり、生心と肉心をまとめて心魂とするなら心魂があって霊体があり肉体があるという認識になる。宗教者の認識によるなら天使長は人間に対して外的にはならない。しかしみ言葉の観点に立つなら、神臨在される人間の生心に霊体は主管されるので、霊的存在の天使長は生心を中心として活動する人間に対しては外的ということになる。しかし堕落人間は本然の人間としての霊性が開発されず生心の認識が不足であるために、霊的存在の天使長に、より内的主体的な立場を譲ってしまっている。主管性転倒が起こっていてその主管性の復帰の歴史が今日まで続いてきたのであり、私の心魂をして天使長に対する主管性の復帰を見なければならない。生心という概念が把握されて初めて、完成段階に至った人間は外的対象的存在である天使長に対して内的主体的だという論理が立つ。人間は本来、地上界に対しても霊界に対しても主体的位置に立つように創造された。

0 件のコメント: