2014年6月9日月曜日

今日の想い 752 (夜昼の私)

眠りに着けば意識は次第に遠ざかり、知らないうちに昼の私は消え失せてしまう。二度と昼の私に帰れないかも知れないのに、それでも何の不安も無く消え失せてしまう。これほどに自己に執着し、生きることに執着する人間でありながら、眠りといういたって簡単に執着の意識の及ばない夜の深淵に委ねてしまう。昼の私と昼の私の間に夜を挟み、夜を挟んで途切れ途切れの意識存在でありながらも、それでも昼の私はずっと繋がっていると信じている。時間の流れに沿って刻印され続ける記憶がそうさせる。きのう何をしたか、何を食べたかさえ思い出せずに、断片的記憶の尻尾を探しているにもかかわらず、それでも昼の私の継続を信じている。人は夜の深淵を知らない。覗き見ることさえできないから夜の深淵の存在など信じないし認めない。昼の私が意識の主体になっているからだ。昼の私を中心に全てが回っている。実は昼の私からは想像もつかない夜の私が存在している。夜の私は無意識の意識という夜の深淵を生きる。無意識の意識が昼の私を通して自覚しようとし、無意識の意識の結果を意識として生きている。朝に人は、昨日と同じ自分を生きていると当たり前のように目覚めるが、昨日とは異なる意識を今日生きることができることを知らない。人は昼の私の主体である神様の存在を認めても、夜の私も知らないし夜の私の主体的存在である夜の深淵の神様など想像もつかない。御父様は昼の神様、夜の神様というお話をされた。創造原理は帰納法的に導いて、神様がどのような御方であられるかを提示している。それは創造対象の位置から光を照らして見届けられる神様であり、一面的だとは言わないまでも全体ではない。ましてや神様自体から発せられた提示ではない。そこで本体論だ。御父様は神様と完全一体となられた位置で、夜昼の神様と本体論を提示された。夜の私が無意識の意識という夜の深淵を生き、無意識の意識は昼の私を通して夜の私の存在を自覚しようとするように、夜の神様も昼の神様を通して存在を自覚しようとされる。地上生は知らない自分を探しながら発見する旅だとも言えるけれども、それは夜の私の深みに出会い、出会ったなら更に深みに出会う旅だとも言える。創造理想というのは昼の神様の最終的目的ではあるけれども、創造理想を完全に果たした後に次なる理想が何かは持っておられない。昼の神様を通して出会った夜の神様が、神界の深淵から取り出される次なる理想が提示される。人類歴史期間を遥かに遡る宇宙史を霊視しても、昼の神様の継続的宇宙進化史が昼の意識として流れているけれども、その緩慢な流れの中で定期的に瞬時に大変化する出来事を見る。そしてその出来事の前段階として夜の無意識の意識という宇宙の深淵、宇宙の眠りがある。宇宙も眠りと目覚め、夜と昼を繰り返してきた。

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