2014年6月8日日曜日

今日の想い 751

愛とはなにか、、。御父様は愛についていろんな説明をしておられるけれども、その中にこういうのがある。それは「愛とは潤滑作用をしてくれるもの」というものであって、真の神様のみ言葉の中にあるのだが、感覚人間にとってなるほどと思える説明だ。車にとっての潤滑作用をしてくれるものは潤滑油であるように、夫婦が一つになる愛の行為に潤滑油に相応する液が必要であることは誰も否定しない。否定しないどころか一気に肉的愛の感覚的イマジネーションが想起される。夫婦お互いが生殖器を求めれば潤滑液が発生するのであり、その液をもって運動(授受作用)させる潤滑作用が為されていく。そうなると愛の行為に於いての愛の本質は潤滑液の中にあると言えるのかも知れない。本来、本然的人間は、自体自覚に立つのではなく他体自覚に立つのであるから、為に生きたい、他の為に犠牲になりたいという衝動が働いて当然のはずだ。そして為に生きるとは為に生きてひとつになることでもあり、為に生きる衝動と一つになりたいという衝動は同じものであるように思える。それを明確に意味するみ言葉が思い当たらないので仮定でしかないが、愛の行為が偽りの愛から出発したから問題なのであって、愛の行為の外的表現自体は堕落であっても本然の愛の行為であっても同じ表現を取るはずであるから、その行為に為に生きる理念が生きていて当然だろう。回りくどい言い方になったが何を言いたいかと言うと、私達が為に生きるのは神様を中心として為に生きる対象と一つになることであろうし、その意味ではより内的な愛の行為、霊的な愛の行為であると思える。よって為に生きる犠牲的精神には、潤滑油、或いは潤滑液といえる、愛の本質としての潤滑作用をしてくれる分泌液をそこに見ることになる。私達は為に生きると御題目のように唱えたとしても、他体自覚を目覚めさせて為に生きる存在になれるのではなく、何らかの分泌される愛の本質を見ようとしなければならない。それでこそいろんな次元のいろんな一体化で千変万化の愛に酔える存在になれるのではないだろうか。愛の行為でひとつになるという外的一体化の在り様を通して、その本質である内的一体化としての愛の行為と愛の潤滑液を霊的に見通すことができる。愛が観念に留まるものではなく、内的生活の生活実感として、為に生きる愛の本質を分泌することができる私になれれば、心と体の戦いに終止符を打てるのかもしれない。私の中で内的に想起される愛の潤滑液は、汗であり涙であり、そして血を流すに値する心情であり、それらを供えて(分泌させて)精誠を捧げることだ。

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