2014年6月17日火曜日

今日の想い 754

み言葉を知らない人達は自分の現実を事実だと思い込んで生きている。現実は移ろうものでありながらも移ろう現実の中に生きているから、移ろうことに委ねてしまっている。しかし現実が遮断される時が来る。死を迎える時、現実は遮断される。現実が遮断されて大慌てする。現実が消え入ると自分も消えて無になるものと信じていたが、どういう訳か自分の核だけが残っている。核だけが残りながら核として存在する事実を否定して、消え入る現実だけを生きてきた事を悟る。み言葉を知る私達は知っているだけで事実を確保したことになるだろうか。自分の核が霊人体を成長させる真の愛と真の生命を相続していると言えるだろうか。御父様は「み言葉に対する伝統」という言葉をみ言葉の中に示しておられるけれども、み言葉を中心として一体となるべく、み言葉を中心として自分を育てていくことができる私にならなければならない。事実は絶対的なみ言葉が基準であって、み言葉とひとつになろうとしない限りは事実は現実の中に埋もれたまま流れてしまってすくい出すことはできない。私達がみ言葉を学んで知っているとしても、それは学んだ基準で信じる為の足場にはなるが完全なものではない。み言葉を知らない人達が現実を事実だと思い込んでいるように、み言葉を学んだ私の基準とみ言葉の完全な基準を混同してはならない。み言葉を読んで読んでまた読んで、実践して実践してさらに実践して、その上でみ言葉をより学んでいく、み言葉に対する飽くなき追求、渇きを覚える自分を自覚できなければ、み言葉と一体となるというみ言葉に対する伝統を私の中に打ち立てられない。み言葉はみ言葉、私は私だと言う風にかけ離れたままでは真の愛も受け取れず、真の生命も相続できない。移ろいゆく頼りない現実があり、現実に翻弄される私もまた移ろいゆき頼りない。地上を生きるとは現実を生きることだが、現実に埋もれて生きることが現実に生きることとはならない。事実を把握しながら現実に生きることもありうる。現実の背後にある事実を知り、現実と事実によって真実を知る。

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