2014年6月30日月曜日

今日の想い 761

距離を置いてしまう食口の中に、一つの言い訳として真の愛がわからないというのがある。絞られるだけ絞られてきたし、さらに骨身を削ってまで活動もしたし半端ない献金もしてきたのに、さらに苦労を要求され続けて、それが真の愛だとは思えないと思っている。真の愛とは何なのかという観点ではなく、単に要求され続けて結局自分の感情を満たしてくれるものではなかったという嫌気感、失望感から真の愛がわからないという言葉を吐いたに過ぎない。要するに他の為に生きるとか、犠牲的精神に立つとか、結局それらは方便で、根底に於いては神様を信じれば、或いは祝福を受け入れれば、真の愛を受けることができ天国という幸福の境地に連れて行ってもらえるはずだという受動的な信仰態度が居座っている。既に、絶対的愛としての真の愛など私の中にはないし、私から真の愛を与えることなどあり得ないという見地に立っている。統一食口は神様と真の父母の証し体だ。私達をして人々は神様を体験するのであり真の父母がどんな御方かを知る。要するに私達は愛される為に存在している前に愛する為に存在している。真の愛を受け取れない、真の愛がわからないと言う以前に愛を与えようとし、為に生きて犠牲を差し出し、相手が復活して生きることを通してこそ真の愛を実感すべきだ。愛は相対関係からしか感じ取れない。親の愛は親になって愛して真の親の愛を知るように、夫婦の愛は夫婦になって夫を愛し妻を愛して真の夫婦の愛を知るように、愛するという能動的愛を意志してこそ真の愛を知るようになる。真の愛はわかろうとするものではなく、与えて理屈抜きに愛してこそ感ずるものであり、感じてさらに与えようとする衝動に、この愛に神様からきた真の愛が宿っているのを実感する。統一食口として切実なのは、真の愛がわからないということではなく、愛するべきなのに愛せないということの方が切実だ。真の愛がわからなくて自分が距離を置いてしまうのは自分を説得することで解決できるかも知れないが、愛さなければ神様が離れていく。私達が御父様の息子であり娘であると断言するなら、御父様が愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れられたように、私達も同じように愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れてこそそれを証しできる。私達統一食口は愛の開拓者だ。見せて誇れるものはないし必要もないけれども、私が愛の開拓者であることは天宙に自負できる。常に愛の開拓者であってこそ天の父母様に報告祈祷ができ、過ぎ去るこの一瞬にも神様は尋ねてこられる。

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