2014年6月15日日曜日

今日の想い 753

これが統一教会の事実かと思って愕然とする食口がいる。しかしそれは善悪判断する私、即ち堕落の位置から見るものであって事実でも何でもなく現実に過ぎない。現実を知ってうろたえても仕方がない。現実を知るとは受動的な私に留まり、それが神から来るものであれサタンから来るものであれ今の私の善悪基準で計ってしまい、往々にして倫理道徳の衣をまとうサタン的感情と論理に委ねてしまう。復帰された私の意志を働かせて究明してこそ事実に近付くのであり、私はその事実を求めていくなら現実を知って右往左往することにはならない。私達統一食口はもう一度はっきりと確認すべきだ。私は救われたいのかどうなのかと言う事を、、。生命をかけるほどの救いを求めてこの道に来たのかと言うことを、、。結局は霊的救いの重要性を肌で感じた者でしかこの道を進めない。御父様が過去にどうされたこうされたと言うのは過去の現実であって、現実を事実と混同すれば神とサタンの区別はつかなくなる。現実は見て判断している今の自分そのものであり、事実は復帰され救われた私自身が事実と認識できる。御母様がどうだ御子女様がどうだと言うのも現実に過ぎない。現実は時代と共にその背後にある事実を明らかにされ、現実の意味が変わり嫌悪していた感情も変わる。復帰され救われた未来の私の判断に委ねる現実があって、その現実に翻弄されてはならない。特に性的関係性に対する興味と関心には、性に対する拭えない堕落的感情が付着していて嫌悪感をどうしても覚えてしまいやすい。事実の認識に近付くまでは敢えて遠ざけてしまうと言うのも手で、そのように歩んでも来たが、血統転換の本質に迫れば迫るほど避けては通れないし、正しく追及していけば堕落的感情を寄せ付けない神様の心情の中心で為される秘儀体験が血統転換の本質であることを自覚させられる。こういう説明が正しいのかも理解できるのかも現時点ではわからないが、血統転換の秘儀に関する私達の認識は未だに現実以上の事実ではなくて、事実を認識させる為には教会と言えども時間を要するだろう。しかし御父様の骨髄の中に入れるかどうかの分かれ目はこの秘儀を受け入れられるかどうかにあることは確かだ。私達は針の穴を通り抜ける駱駝になれるのかどうか、、。

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