2014年6月6日金曜日

歴史時代を超える (4)

歴史時代を越えた新しい歴史、御父母様を起源とする新しい歴史はサタンの侵入圏外であるし、それが蕩減の必要のない、すなわち蕩減は復帰の為であって復帰の完成の上に立てられる新しい歴史には蕩減は必要がない。この歴史時代を越えた新しい歴史、御父母様を起源とするサタン侵入圏外としての新しい歴史、という概念(言葉)が御父母様によって創造されたのであり、概念は新しい歴史世界に実体化されていく。私達は概念の創造ではない、概念を新しい歴史世界へと実体化していく御父母様の協賛者であり概念(言葉)の実体化に動く手足だ。サタンがどれほど知恵があり神様の創造理想という概念(言葉)を把握してこの世の君、すなわち歴史時代の神となれたとしても、この新しい歴史は完成実体であられる真の父母という実体から出発するのでサタンは侵入できない。私達は改めてサタンの正体をはっきり知り、サタンとの完全離別を宣言しない限り、跡形もなく消え去ってしまう歴史時代から足を抜けずに囚われたままで歴史時代もろとも消え失せてしまう。私達はサタンの正体を本当に見抜いているだろうか。罪を犯さない、堕落しない、その感覚と感覚からくる意志判断は善しとしても、それはあくまで私の個体に関して戒めるものであって、個体としての私の感覚と意志の及ばない者に対して判断するものではないはずだ。善悪知るの木はその表現通り、その木の実を取って食べたから善悪を知るようになったのであり、食べる前から善悪判断がエバにあったのであれば堕落はしない。善悪判断が自分の中にあるということと、戒めを与えられているということとは別物だと理解すべきだ。もちろん私達は善悪判断を持っている。しかしそれは堕落によってもたらされたものであり、或いは復帰されて来た相対的なものでもあるけれども、それにしてもその善悪判断を新しい歴史にそのまま持ち込むことはできない。私達が把握している一線を越えるという堕落の感覚的認識と、御父様が出された絶対性の概念とは異なるものだと理解すべきだ。歴史時代に復帰摂理を牽引してきた宗教は道徳倫理を立ててきたけれども、しかしそれは本然の世界に通用する絶対的なものではない。あくまで相対的なものだ。絶対的なものは別にあってそれを絶対性の概念で表されたと私は理解する。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に立てられる絶対性だ。それは感覚的なものではなく超感覚領域の霊的な言葉であり、エバが霊的に堕落したことは肉的に堕落したことによって霊的堕落が証明されるように、霊的に絶対性が立てられたことは肉的にも堕落性が解消して創造本性が芽生えることによって絶対性が証明される。歴史時代の実は真の父母を地上に迎えたことでその使命を完結した。新しい後天の歴史は真の愛の結実を個人に見て、家庭に見て、国にみて世界に見て、結実の様々な様相が百花繚乱の如く真の愛の文化として咲き乱れる歴史だ。

0 件のコメント: