2014年8月11日月曜日

今日の想い 774

言葉には言霊が宿っている。言霊は原因的であるのに対して言葉は結果的だ。み言葉には文明に神霊が宿っている。本質である神霊を見ようとせず、結果であるみ言葉の輪郭、表面的言葉だけをなぞっても神霊は受け取れない。神霊を受け取れないばかりか、み言葉の言葉に神霊ではない別の霊を吹き込んでしまい、み言葉を別様に理解して、悪霊の黒魔術としてみ言葉を悪用してしまう場合すら考えられる。受け取り方、使い方を間違えるとみ言葉の言葉は恐ろしい。分派は方向性としてそのように操られている。何気なく口にしている言葉を観察してみると、私特有の言葉の使い回しがあり、常に口をついて出る言葉があり、言葉を使うことに怠惰な自分がある。それら全てが堕落的だとは言えないまでも、多くが堕落性からそのようになっていると思える。一日の生活の中で使う言葉の殆どを、私の堕落性から発する言葉で溢れさせている。そんな使い回された言葉の洪水の中に生活しながら、気分的に信仰的言葉を撒いたとしても、都合の悪いときに神様を呼び求めても、それは堕落性から発する言葉の洪水にかき消されて当然だろう。連綿と繋がれてきた堕落の血統の流れから見ると、御父母様との接点を持った私という位置はかけがえのないものなのだろうけれども、しかし私自身の中で生活実感としてみ言葉で生み返られたという認識はない。霊的なことではなく、生きる現実の生活実感として、生み返られ、堕落圏を脱して神様の心情圏、心情世界に生活しているという感覚は薄い。それは明らかに私が本然の世界を求めているふりをしているだけで、実のところ堕落圏にしがみ付き、堕落世界に執着しているということだ。神様に出会いたいなら神様を求めるしかなく、愛の家庭を作りたいなら愛するしかなく、心情世界に住みたいなら心情溢れる私になる以外ない。ようするに心情を注ぐに応じて注いだ何倍も受け取る、それは私の輪郭を越えて溢れて受け取るから心情圏、心情世界へと拡大するのであって、与えて忘れるその真空状態に、何倍にも増して与えられるという愛の法則がそこにある。どことなく冷たい隙間風が入る、そんな家庭にどうしてなってしまったのだろうと思うけれども、私ではない何か他のせいにし、私の先祖の罪が重いからだと言い訳し、そう自分を納得させて、与えること、愛すること、心情を注ぐことをしなかった。言葉に言霊が宿るように、家庭の中には多くの霊が宿って家庭の空気、雰囲気をつくっている。会社も社会もその延長線上にあってそれ相応の霊が宿っている。私は自分がどれほど器の小さい者であるかはよくわかっているけれども、器が問題なのではなく、私が拠り代(よりしろ)となって、神霊が、聖霊が、私が愛するのを通して愛するのであり、私が心情を注ぐのを通して心情を注ぐ。そうしながら私の器も大きくなっていく。

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