2014年8月16日土曜日

堕落に関する新しいみ言葉

御父様は晩年、毎朝の訓読会で、堕落に対して新たな説明を何度かされた。それは原理講論の堕落論に納得した者に取っては実に不可解なものだった。そのうちに解かりやすい形で説明されるだろうと思っていたが、しかし御父様は忽然と逝かれてしまい、多くの者はそれらの説明をどう理解していいのかわからず棚上げされたままだ。解釈、というより理解と言ったほうがいと思うが、それは私達に任されたことになる。この堕落に関する謎解きのような御父様の説明は、夜の神様、昼の神様という概念へ向かう私達の理解の方向性が先ず正しくないと、随分的外れな解釈になったり、陳腐なものになったり、あるいは原理を否定してしまうようなものになってしまいかねない。聖書も、旧約が象徴的み言葉であり、新約が形象的み言葉であり、成約が実体的み言葉だと理解しているように、その3数(3×3=9数)を越えて位が上がると次元を超えた位置に相応しい、次元を上げたみ言葉が現れていいはずで、それが本体論と関係があるのではないか、と私は思っている。間接主管圏を原理結果主管圏というのは、神様は原理の主管者であり原理で結果を主管されるからそういうのであって、それと比べて直接主管圏は神様は心情の神様であり、神様と一体となった人間も心情の神様の位置に立ち心情で原理をも主管することになる。原理の道理から次元を上げた心情の道理が通じるから直接主管圏となる。原理からみた原理で説明する堕落はより横的平面的であるのに対し、心情からみた心情で説明する堕落はより縦的であり立体的になる。原理世界ではルーシェルの存在が天使長という霊的存在としか説明できないが、心情圏に立つ心情世界でルーシェルを説明するなら、夜の神様の弟でありアダムの叔父ということになる。原理では神様(昼の神様)、天使長、アダムという関係性の中でエバが存在しているが、心情世界では夜の神様、その弟(ルーシェル)、夜の神様の息子(あだむ)という関係性の中で昼の神様(エバ)が存在している。エバの創造は昼の神様の体の創造でありエバの完成は昼の神様の完成となる。私という存在も夜の私と昼の私がいるが、もし堕落がなければ昼の私は昼の神様と繋がっているが、堕落という事実があるので昼の私は堕落のエバと繋がっている。しかし無意識圏である夜の私は夜の神様と繋がっており、それ故に夜の神様が送られた御父様に出会える通路を、夜の神様が夜の私という無意識圏に用意された。夜の神様、昼の神様と言われるなら神様が複数存在しているように思われるが、原理世界ではハナニム(統一体)でも神界(心情世界という言葉を使うと混乱し易いので)では複数の神様、と言うより複数的な様相になる。昼の私が自分を一人として認識しているが、無意識圏の夜の私は統一体である昼の私の枷を外されて分裂するように、、。ルーシェルを弟と表現するには夜の神様と同じ位相にあるもう一柱の神となるし、原理世界では他の天使長であるミカエル、ガブリエルも神界では同じ位相の別の神となる。しかしそれらが原理結果主管圏に於ける原理の説明は統一神としてのハナニムとなる。長子権、父母権、王権は三大祝福である個性完成、子女繁殖、万物主管と関係性があるのが伺えるが、長子権は父なる神様の子に譲る人間としての権威であり、父母権は神人一体圏の昼の神様の権威であり、王権は昼の神様に対する夜の神様の権威とするなら理解できるように思う。よって王権という言葉は直接主管圏に入って神界という心情中心世界の頂点を意識しなければ出てこない言葉だ。天地人真の父母の天、地、人も、その三権と関わりのある言葉とは言えないだろうか。

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