2014年8月10日日曜日

蛇は先ず知的に誘惑してくる

へびは女に言った、「あなたがたは、決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。  創世記第三章から
アダムとエバは、未完成なのに善悪知るの木の実から取って食べて堕落した。原理では未完成である間接主管圏、完成すると直接主管圏と簡潔に言い表していて、解かったつもりでいるけれども、その言葉の概念をどこまで理解しているかは極めて限定的だということ、或いは本来の概念とは全く異なる理解の方向性に向いているかも知れないということ、この二点を常に踏まえて咀嚼していかなければ、必ず狡猾な蛇が私に言い寄ってくる。様々な分派がある。様々な解釈がある。分派があり解釈が異なるということは、み言葉の概念は一つであるにも関わらず、その概念を捉えることができないので、概念に代わる解釈へと、熟れない実を早まって食べるべく飛びついてしまう。いろんな解釈は全て蛇の知の誘惑だ。中には一笑に付してしまうものもあって、どうしてこんな稚拙なものに飛びつくのだろうと不思議に思うが、中には随分狡猾なものもあって、蛇としては随分大物だと思えるものもある。食口であればみ言葉がわからないと思えるのが普通であって、敢えてわかろうと焦る必要は無い。み言葉の理解不理解、概念に近付けるか否かは思考によるものではなく、本人がどのステージに立っているかに拠っている。原理は自分の中で論理性を備えて理解していると思えても、特に八定式以降の御父様のみ言葉は非常に難解で、論理性で捉えようとする私の思考を越えている。越えているものを無理やり理解しようと焦って、誰かの解釈に飛びついてしまうと、知的な意味でアダムエバと同じ過ちを犯すことになる。理解できるステージにステップアップすれば理解できるようになる。勿論焦って解釈に飛びつくから問題になるのであって、み言葉への飽くなき追及心は失ってはならない。私はみ言葉もわかってはいないけれども、置かれている事情圏、環境圏の意味も、どう勝利すべきかもわかっていない。今わからないならわからないのが私のみ旨だと腹に落として、敢えて焦りを見せて問い詰めることは御意(みこころ)ではないと思っている。喩や比喩で語られておられるみ言葉だと認識して、その裏の意味を探るべく理解のベクトルをあらぬ方向に向けているけれども、御父様は私達に謎解きを願われてみ言葉を差し出されている訳ではない。イルミナティと同列に語ること自体、御父様を貶めている。ここまで記せば何のことを言っているのかわかると思うが、ルーシェルは知情意の心魂存在である人間を知的に誘惑し(賢くなるには好ましく)、情的(感覚的)に誘惑し(目には美しく)、衝動で誘惑している(食べるに良く)。情的なものや行動は知の扉を開かなければ開けようとしないのが現代人の特徴だが、唯物論で誘惑し唯物思想が席巻しているように、知に対する貞操観念が薄く、論理的なものに弱いのも現代人の特徴だ。

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