2014年8月25日月曜日

今日の想い 779

ある子女様の個人的な教会活動のサイトを見ながら、少なくとも私は正しいとか間違っているとかの感情を抱くべきではないと思った。もちろんグループ派に関与しておられる御方の話ではない。教会側の説明は公的位置を辞任されたとしか報じておらず、その経緯であるとか、その良し悪しについてどうこう述べたものはない。現状が知れ渡った時のアメリカ教会食口の動揺は確かに大きかったし、その鎮静化を願われて回られた世界会長の心労も大きく、教会は不信の雰囲気が蔓延していた。原理原則の杓子で測ろうとする食口にすれば受け入れられないのが当然であるし、子女様にすればそれなりの判断があったにしても、原理原則というコップの中に生きている食口にすれば祝福の価値を失うほどの大問題であった。原理世界を上限とするのか、原理を越えた心情世界にまで入っていけば許されて良しとされるのか、原理観という観として見る為には、原理を越えた位置に昇れなければ観は立たないのだろう。教会として原理に従う原則を守るのは当然のことだけれども、原則を外れる御子女様と祝福子女に対して、堕落したという感覚を持つのは教条的であり、教条的であれば原理に立つのではなく戒律に縛られ、そこに愛で対することを否定してしまっている。堕落という概念が正しく捉えられていない、堕落の意味を戒律を破るという観念に捕らえられたままでいる。原理原則を外れた(とされる)御子女様に対する私の感情、問題のある(とされる)祝福子女に対する私の感情、それは神様が抱いている心情、御父母様が御子女様や祝福子女に対する心情と同じだと言えるだろうか。それが異なるのは明らかだというのはわかるけれども、では原理原則に立つ私は、願われない間違った感情に左右されない為には原理やみ言葉のどこからどう学んで対すればいいのだろうか。イエス様の時代、イエス様の行動はユダヤの戒律から外れていた。だからユダヤ民族は受け入れることができなかった。代表的クリスチャン達は御父様を受け入れることができなかった。2千年も待ち続けながらも、それでも不信してしまうほどの事実が御父様にあったと見て当然だとは言えないか。雲に乗って現れなかったからと言うような、そんな幼稚な理由ではないはずだ。それでは成約聖徒はどうだろうか。今の教会の混乱が証明しているように、信じていた原理原則に当て嵌まらない事態を御家庭の中に見て不信している。見るだけでなく教会も食口もそれに翻弄されていて、当然のように不信に陥ってしまう。おそらく、私達が信仰すべきものとして捉えていた全ての事柄が、ガラガラと音を立てて崩されるのは或る意味御意に違いない。私達の中の一切が完全に崩されて、原理とみ言葉に対する中途半端な理解が崩されて、そこで始めて本当の祝福の種として受けたものが残り、祝福の芽が吹き出すのだろう。原理だみ言葉だと言いながら、私達は所詮堕落した位置で正しいとか間違っているとか判断しているに過ぎない。原理は間違っていない。しかし正しく捉えていない私の原理観が間違っている。原理を理解しているという私の立っている段階を一つでも二つでも下げて、一歩でも二歩でも後退して、そのように謙虚な位置に突き落とされてでも低い位置に立たなければ御父母様に付いて行くことはできない。偽りの愛であっても、原理の力を越える愛の力が働いたから堕落してしまったように、原理原則を越える愛の力が働く必要があるし、真の愛が真の愛の力として関与する為には原理原則を越えても働くという証しが必要だとは言えないだろうか。愛が原理原則に縛られるのであれば真の愛とは言えない。その子女様は原理原則には縛られてはいない。原理原則の枷を外してしまえば真の家庭から外れて堕落圏に落ちるというなら、御父母様の勝利圏など何の意味があるのかということになる。

0 件のコメント: