2014年8月19日火曜日

今日の想い 778

私は神様に取って絶対的に必要な存在だから存在している。何を中心として?愛を中心として絶対的に必要とされている。要するに愛される為に存在している。しかし愛される為に存在しながら愛されている実感がないとするなら、それは神様の問題だろうか。それとも私の問題だろうか。しかしここでこの逆の問いかけがあって、神様は私に取って絶対的に必要な存在であり、愛を中心として神様が絶対に必要であり、神様を愛する為に私は存在しているなら、実際に神様を愛しているだろうかという問題、そして愛していないなら私の問題なのか他の何か別の問題なのか、と言う逆の問いかけが一方にある。愛は為に生きる愛、真の愛があり、自己中心的愛、偽りの愛がある。この世は偽りの愛に満ち溢れていてそれ故に霊的には息苦しさを感じている。それではそう感じる私自身はどのような愛に満ち溢れているか。為に生きようとする真の愛なのか自己中心的偽りの愛なのか。愛される存在である前に愛する存在として私がいるという観点に立たなければ、どれほど存在の在り様を問うてみても迷宮に迷い込んでしまう。存在の在り様を問う哲学は、ありとあらゆる迷宮をわざわざ創り出して、人類を袋小路に追い込んでしまった。本来の哲学は原因存在に愛と霊の本質を見るところから出発すべきなのに、既存の哲学は逆で結果(存在の在り様)を原因だと決め付けて出発するからそうならざるを得ない。愛されてないと認識する前に愛するべきだ。受動的である前に能動的であるべきだ。愛する過程で愛を受け取る。与えればそれ相応に受け取るべきというバランスシート、要するに損得勘定で生きているけれども、愛に生きれば1与えたものが10にも100にもなって返ってくる。愛の哲学でもあるみ言葉ではそうなっているけれども、しかし私が愛と捉えているものが曲者で、実は巧妙にも愛とは名ばかりの自己中心的な偽りの愛が相当量紛れ込んでいる。真の愛なのか偽りの愛なのか、与えること(投入すること)に専念し与えたものは忘れてしまう、さらに今一つ付け加えると、与えることに於いて簡単に与えられるものであれば本当の意味で与えたことにはならない。痛みとして犠牲を覚えるものでなければ与えたことにはならない。神様の愛は犠牲を供える愛だ。だから真の愛だ。私が神様を愛すると言うなら、犠牲を供えるのでなければ愛したとは言えない。

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