2014年8月17日日曜日

今日の想い 776

その公的な位置に対しては受け入れるけれども、私的には公的な位置を食いものにしていて受け入れられない。そんな意見は上司だけではなくあちこちから聞こえてくるけれども、私はその感覚に対して違和感がある。噂はどこまでも噂だが、火のないところに煙は立たないという観点に立てば、確かにそれなりの事実があるのかも知れない。そしてそこには自己中心からそうなっている部分もあるのだろう。でもそれを問い詰める権利は御父母様にはあっても個人的には誰にもないだろうし、それをえぐる言葉も持つべきではない。一人の人間を受け入れるとはその人の清濁合わせて受け入れるのだろうし、その一人の人間に対して受け入れる感情と受け入れない感情を同時的に抱えることはできない。受け入れる時は清濁合わせて受け入れるのだし、受け入れない時は清の部分も受け入れない。そして事自分の事に目を向けると、清よりは濁の部分の圧倒的に多い私は追求できる資格は毛頭持ち合わせていない。追求できる人は自分が追及する相手以上に清いという位置にいるはずだ。摂理に貢献する使命の大きい人物は、それ相応の堕落圏の沼に足を突っ込まなければならない、と言うのが私の見解だ。歴史に残る聖賢達も、その裏の顔が必ずあることが彼等を研究すればあぶり出されるはずだ。私達の教会に於いても決して例外では無い。その方に対する使命的責任は大きく期待し要求しておきながら、濁った部分は自分の思う基準を宛がえて批判対象に落とし込むなら、それは霊的生命に於ける泥棒だ。祝福という霊的生命を戴いておきながら、地の私の基準で御父母様と御家庭を裁くのと何ら変わりない。正直を言えば、店を運営していて従業員から批判される事柄もある。問い詰められれば言葉を失う。だからといって従業員が私の位置に立ち、店の責任を背負ってくれる訳ではない。責任のない位置で批判している。ビジネスに関わっているから金銭的なことを言うなら、結果として願われる目標に到達することが重要であって、これは公的これは私的といちいち裁可を仰いでいたら一歩として前進できない。結果を残せるならば、他から見れば私的だと思われることも公的意味合いになる。一店舗任せて一億利益を上げてくれるなら、店の発展の為にと一千万自由裁量として使ってくれても何ら文句は無い。私的な圏の中に公的なものを見出すのか、公的な圏の中で私的なものが許されるのか、この問いが解けなければ清貧に甘んじるしかない。

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