2014年8月28日木曜日

今日の想い 781

グループ派でもなく、分派でもなく、御母様を中心とする教会に所属しているから自分は正しく信仰しており、正しい道を歩んでいると信じているようだけれども、果たしてそうだろうか。それは信じているからではなく、正しく信仰しているつもり、み旨を歩んでいるつもりになれる位置が、変わらず教会に所属し続けることだったからではないだろうか。ドラえもん流に言うとツモリナールが教会にあっただけのことで、教会に所属することと御父様が願われた統一教会の本質、本流を歩むこととは違うはずだ。どこに所属しているかという問題以上に、御母様を中心とする教会に所属して当然で、しかしそれで安堵していてはどうしようもないということだ。緊張感からすると、教会を飛び出した立場の者達の方が大きいかも知れない。緊張感が大きければそれだけ真剣にならざるを得ないし、自らに問い続けて密度の濃い時間を送るだろう。その意味では隙がないはずだ。私達の教会が御母様を中心とする教会になるには、もはやグループ派だ分派だと言って対抗意識を持つとか、正義感を持つとか、そんなものは今となってはどうでもいい。それよりは私達が御母様を中心として求心力がどんどんと高まる教会になろうとしているかどうかの方が遥かに重要だ。御母様の関心が何処にあるかを肌で感じることだ。日曜日に教会に行くことで満足していないだろうか。何ページ訓読したということで満足していないだろうか。献金することで満足していないだろうか。祝福を受けて終わったのではなく祝福を受けてからが始まりであるように、ある内的段階で満足するようではその時点で既に成約信仰の形骸化が始まっている。御父母様を慕い侍るとは、至高の頂点をどこまでも昇っていかれ、神様の位相に立たれた御父母様の後を疲れず追い続けることに他ならない。それは堕落性の足枷をもろともせず、それでこの世的幸せという手足を引き千切り犠牲にしようとも、それでも御父様のおられる霊的高みに果敢に昇り詰めていく覚悟だ。その覚悟が本当にあれば、(本当にあればの話だが)少々の方便など問題にならない。小市民的に誰も傷つけない、人のいい食口、丸い角の取れた食口にはなったが、しかし摂理としての願いを果たせなかったらどうだろうか。それでも意味があるだろうか。御父母様はそれでも喜ばれるだろうか。そんなはずはない。この世的人格の話に留めて良しとされるなら、御父様が日本食口に対して常軌を逸した負担を背負わせ続けた時点で崩壊している。この世の人達を騙したとか、私達は騙されたとか、そんな言い方をしているけれども、この世の道理では騙したり騙されたりという言い方ができるとしても、霊的な道理は地上のこの世の道理とは異なる。蕩減すべき自分の位置がわかれば全てを甘受すべき私であり、もし天から騙されるという仕打ちを受けるなら天に大きな貸しをしたと喜ぶ位置が霊的な道理となる。本流である教会に所属しているのみで本質を掴めるのではない。神とサタン、善と悪、霊的価値観と地上の価値観、縦的に立つことと横的に衝突を回避すること、心と体、これらの二極のせめぎ合い(一体化のプロセス?)により本質なるものを掴んできたように、教会とこの世という二極から、より本質的な真の父母を受け入れ、み言葉を受け入れる教会を更に分別してより本質を際立たせるために、敢えて分派が現れ、グループ派が跋扈する対立が立てられているように思える。教会に所属してそれで良しとするのではなく、所属して何を立てるか、本流として分派以上に神様が認めるものを立てられるかが問題だ。私達は本物として残れるかどうかが今本当に試されている。

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