アダムとエバが神様の息子娘であるからアダムとエバは兄妹だ。アダムとエバが兄妹であったということと、イエス様が妻として迎えるべきは腹違いの兄妹である洗礼ヨハネの妹だったと御父様が言われたこととは関連があるはずだ。そうなると再臨主としてイエス様の使命を受け継がれた御父様と御母様の関係にも関連があって当然だろう。御母様が胎中から聖別されて生まれてきたと明言されたのはその通りの意味だろうと思う。近親相姦という関係性は堕落している親だから言えることであって、アダムエバも、イエス様と妹が為されたであろう子羊の婚宴も、堕落していない神様を中心としているから近親相姦ではなく近親結婚だ。今日では同性愛が大きな問題となっているが、そうならざるを得ないのは近親相姦によってそうなってしまったと言われている。ようするに本人自身の問題というより血統的な問題として、近親相姦という種を蒔いた結果としての表れだ。アダムエバ自身がフリーセックスであり近親相姦だ。エバはルーシェルと関係を持ち兄であるアダムとも関係を持ったからだ。もし堕落しなければ神様の心情は創造の心情だけであったが、堕落した為に復帰の心情が創造の心情を凌駕している。喜びではなく悲しみと涙から始まる神様の復帰の心情こそが先ず私達が尋ねなければならない心情であり、御父様の私達の訓練は敢えて自分の首を絞めるかのような、この世から否定され疎外されて当然のような歩みだったのは、復帰の心情を私達に植え付ける為であったと言えるかも知れない。アダムとエバは神様の心情を推し量ることができずに堕落した。私達がアダムとエバを越える為には、神様の復帰の心情を推し量らざるを得ない状況に追い込まれてこそ、越えることができなかった長成期完成級を越えることができるのであり、さらに創造の心情を受け取れる高みにまで入っていくことができる。御父様が私達に相続されようとしたことはどこまでも心情であり、み言葉の本質も心情であり、心情に根差したものしか残らないし流れ去っていく。結局は私自身も心情に根差していなければ去らざるを得ないという心情審判を受けることになる。同性愛という、近親相姦の種をまいた結果が、これからますます生活圏に入ってくる。彼等を異質と捉えて関心を持つことも近付くこともなかったが、それは心情に裏打ちされた態度でも行動でもないだろう。意外と、頭脳明晰で相手の心の機微に鋭い彼らは、摂理を推し進める大きな力になるやも知れない。彼らには彼らしか理解できない神様の復帰の心情があるはずだ。
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