2014年8月10日日曜日

素直に、情けないままを祈ってみる。

アボニム、、。私は背負っている蕩減内容に潰されそうです。妻は生命の絶えるまでずっと、生かさず殺さずの狭間から抜け出せないのでしょうか。本人が願っているはずもないものを、実は奥底で願っているということなのでしょうか。だからこの生死の狭間で息をひそめて、病人としての日課をこなし続けることから抜け出せないのでしょうか。私と一体圏にある妻の苦痛は私の苦痛です。妻は私の健康を羨ましがるけれども、痛みを分かち合えないなら一方の私の健康など返って恨めしいとさえ思えます。夫婦として背負うべきものだと覚悟を決めて生きているつもりですが、天の父母様から無視され続けているようで、ますます遠ざかっているようで、いつまで孤独な愛の減少感を抱き続けられるかわかりません。天の父母様は確実におられるはずなのに、真の父母様は確実に勝利されたのに、私の家庭を訪ねて下さる神様ではなく、御父母様の勝利とはかけ離れた場所に蹲ったままです。私の条件がない、妻の条件がない、おそらくそうなのでしょう。そう認めて忍耐していく以外ないのでしょう。そうなると妻と私の解放はこの地上を去る時にしか訪れないのでしょうか。病院通いと、私達のみ旨と、どのような関わりがあるのでしょうか。私は時として自分が爆発しそうで恐ろしくなります。その頻度は益々増しています。僅かの癒しでも見えるなら、敢えて求めて自暴自虐になって飛び込みそうです。原理の歯止めを飛び越えそうです。そうでもして振り向いて欲しいと泣き叫びそうです。今日も時間は流れます。今の私にとっての時間の流れは、地上を去る解放のその日への道筋以外の意味はありません。妻はそれでも僅かの希望を支えにして生きているようです。幼少の頃、生きるのも苦しい、死ぬのも苦しい、それなのにどうして生まれてきたのだろうかと悩み続けました。そしてみ言葉を聞きました。全てが解決するかのようでした。そして今、再び問い続けています。夫婦で問い続けています。今もって解決していないのです。み言葉を理解しているつもりだったのですが、何も解決していないのです。結局は私の事情を越え、家庭の事情を越えて、より全体の私を用意することはできないようです。私はますます自体自覚の中に没頭しています。良心的に生きることはできても、良心革命を為して、天に直接通じる良心に侍って生きることができないのです。妻は砂漠にいるかのようにペットボトルを何度も口にします。砂地に水を蒔くようにです。彼女の内面も砂漠です。表情にも言葉にも、かつての潤いは感じられません。取りつかれたように健康本を見入っています。せめて私だけはと思ったけれども、砂漠化は思ったよりも強く押し寄せて家庭を侵食しています。エバは誘惑を受けた時、本当に神様に問い尋ねれば堕落は免れたのでしょうか。問えば神様は答えて下さったのでしょうか。私が問うても黙して語られないのはどうしてでしょうか。問うても私には条件がないから尋ねる意味すらないのでしょうか。それならそう答えて下さるべきではないのでしょうか。私と妻は徹底的に、天使長と同じ位置で、孤独と愛の減少感に堪えなければならないのでしょうか。孤独はさらに孤立化を呈し、減少感というより見事に枯渇しています。真の愛の泉は、偽りの愛の泉が完全に枯渇して初めて湧き始めるものなのでしょうか。そうであるならもう少しの辛抱なのかもわかりません。偽りの愛が完全に枯れ、偽りの生命が完全に枯れれば、、。そういう完全否定を通過するのでなければ、救いだとか、癒しだとか、希望だとか、そんな言葉など思ってみるのさえも罪なのかも知れません。正直疲れています。妻に希望的言葉をかけてやりたいけれど、そんな言葉がかえって空しく響くようで溜息にしかなりません。明日はまた往復二時間かけて治療に向かいます。何度も何度も病院への道を往復しました。お互いの間に一言の言葉もなく往復してきました。確かにそうだったと気付いて、明日は御父母様を想って歌でも口ずさんでみようかと思います。そんな取るに足りない些細なことでも、今の私達にとっては大きな精誠だと思います。息をしているのさえも不思議なくらい落ち込んでいるのですから、、。始めて御父母様の御前でひとりご挨拶させて頂いたとき、御父様は横を向いたままでした。部屋を辞退するまでそのままの姿勢を崩されませんでした。今の今でもそうです。私の中の御父様はその姿勢を崩されて私に顔を向けてはくださいません。それでも私は渾身の力で叫びます。チャンプモニム、サランヘヨ。

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