2008年1月28日月曜日
後天開闢時代の精神世界的解釈
宇宙は高次元世界として存在する。目を通し、肌を通し、五感という受信機で受け取るこの地上界に溢れる全ての事物は、受け取ることでその存在を認めることが出来る。しかし肉体の五感では宇宙の事物を受け取ることは出来ない。与える、働きかけることでこそ宇宙に溢れる全ての事物は、その存在を認めることが出来る。与える、そして働きかける感性、それは創造であり祈りであり愛である。愛というパワーを知る存在こそ、宇宙の高次元世界を縦横無尽に活動でき、感知できる。人を寄せ付けない所には本質が隠れている。誰もが簡単に願い、簡単に欲する事物には、見えるもの以上、触れるもの以上のものはない。誰もが嫌い、誰もが遠ざける事物の中にこそ本質はある。必ず或る。上っ面の人生を超え、本質の生命を生きようとするなら、肉体の要求を超えなければならない。肉体にすれば犠牲的活動であるかも知れないが、本質である生命体の活きる道がそこに見出せる。犠牲的活動の中に、三次元を超えた高次元世界が見えてくる。それを実感した者ならば、肉体の五感で受け取るものは唯の陰でしかないことを悟る。一面的感覚しか知らないものが多面的感覚を発見したように、完全盲目の者が全ての光を感知したように、心を閉ざした者が打ち震えるほどの感動に身を任せたように、それはあなたの想像を遥かに超えている。肉体にとっては無でしかありえない、関係性の全く見出せない宇宙は、実は本質を見出したあなたの無限大な活動舞台だ。受けることで学ぶ、その必要性のため、肉体という閉ざされた外との境界面を地上人は得ている。閉ざされていることで受けることが出来る。肉体の衣を脱ぐと受け取ることの意味は無くなる。肉体を脱いだ者にとって光は受け取るものではなく与えるものであり、発するものだ。人類の歴史には、頑なに受けることのみを追求してきた道が続いて来た。これから本格的に与える回路、発する回路という、サタンに隠されてきた眠っている遺伝子が目覚め、高次元のパラダイムに移行する。訓読し父母様の心情圏にチューニングし、高次元への移行プロセスに乗り遅れる者とならないように、、。
2008年1月26日土曜日
祖父
60を過ぎた辺りから祖父は病のため寝付くようになった。それで身体を動かしていた頃の祖父は自分が幼少の頃の姿しか思い出せない。その当時祖父はいつも土間で作業をしていた。冷たい隙間風をてっこう(薄手のドテラ)で凌ぎながら、薄暗いそこに藁を敷いて藁草履やら大小の木桶やらを黙々とこしらえていた。よく側でナタの刃渡りの鈍い光が薄暗い中に踊る様をずっと見ていたりした。小さい私が祖父の膝の上で抱かれている景色が遠い過去の片隅にはあるが、良くしてもらったり祖父の口で褒められたことは殆ど無いと思う。顔を合わせれば小言ばかり口にしていた。しかし手を出すようなことは一度も無かったしその小言も可愛い孫に直接甘い言葉をかけるのが気恥ずかしく、かと言って接触も持ちたいその気持ちが小言を口にさせていたのだと思う。だから自分に取って祖父の小言は嫌なものではなかった。妹が生まれた頃母はそちらに掛かりっきりになり、私は仏間で祖父と寝起きした。ある日何か悪いものを口にしたらしく夜中に気持ち悪くて目を覚ました。祖父に告げると急いで洗面器を持って来てくれた。身体を傾けながら横になった状態でもどそうとすると起きてやれと命令する。言われるままに起きてもどそうとすると、そんな姿勢ではなくちゃんとかしこまって手を膝に置いてもどせと言う。つらく身体に力が入らなくて大変なのにと思いながらも言われるままにした。しかし姿勢を正すことで気持ちがシャンとし、そうすることで吐く事への覚悟が出来た。子供心に侍が腹を切るとき姿勢を正す意味がわかったと思った。しかし祖父に教えてもらった思い出せることと言えばそのくらいである。晩年祖父は身体を悪くしてから日に何度ももどしていた。厠の便器の前にひざまずき経を口ごもりながらその苦行を何度も何度も受け入れていた。二度の出兵で弾を受け、娘(私の母)を産み終えたばかりの妻を失い、再婚もせず二人の子を育て上げた祖父はひたすら耐えて生きてきた。側で祖父の笑った顔を見たことが無い。しかし教会に献身してしばらく、数年をして帰郷したおり祖父は頭をすでに病んでいた。コタツにうずくまり久方ぶりの孫の顔を前にして憑かれたように笑い転げていた。母が私に(今日はよう笑ろうとる、ほんまに嬉しいんじゃ)と告げた。自分も嬉しいのか目頭が熱くなった。祖父はやっと笑うことを自分に許したんだと思った。
2008年1月23日水曜日
忘れられない風景
漆黒の世界の闇が光に代わり始める頃合、朝靄の中に私は佇んでいた。光明がゆっくりと地上を覆い始めると朝靄を透かして、その底にあるものを浮かび上がらせる。昨夜遅くここに辿り着いたらしい。連日朝から家々を訪問して走り回り、昨日は暮れ掛かった頃バンに回収されるとそのままたおれて寝入ったようだ。起こされるまで一瞬の時間感覚だった。気の入りきらぬ身体を引きずり、準備の為バンの引き戸を開けて外気を浴びる。冷たくなった秋の空気に包まれる。日の出にはまだ十分早いらしい。室内灯の小さな明かりでは殆ど役に立たない。伸びた草が車内に入り込む。外に出ると車の近くを畳四畳ほど踏み固めた。ビニールござを座席後ろから取り出して敷く作業に掛かる、しかし、、それを手にしたまま敷くのも忘れて目に飛び込む光景の一連の流れに見入ってしまった。南の方がだんだんと白けてくると、朝靄が一面たなびいているのが見渡され、時間を追うごとに滲んで浮き上がってくるものを近くのほうからあちこちに確認できる。更に光が加わってくると朝靄を透かして当たり一面の薄桃色が浮かび上がってきた。周囲を地平まで見渡せる位になってやっとその正体を眼前に現すと、小高い丘が見渡せるそこは前方の視界一面コスモスの花々で埋め尽くされていた。桃色と白色の絨毯がなだらかな丘の凹凸に合わせて敷き詰められていた。朝靄の底に土や草は深く沈み淡い色の花々だけが幻想的に浮かび上がり波打っている。同僚が感嘆のうめきを静かにもらした。全員でその光景の中で暫く佇んだ。この世のものとは思えない、霊界はさもありなんと思われる景色が広がっていた。人は深く感嘆すると頭の天辺がツーンとなって麻痺状態になる。連日の疲れや思い悩んでいた事柄が潮が引くように足の方から流れ出ていく。その朝の体験があまりにも心深くに刻まれ、その日一日その光景が心の内から離れなかった。訪問しながら何を言われ断られても何の苦にもならず、身体の質量はなくなり足は宙に浮いていた。霊的な感覚だけでその日一日を送った。その朝の体験で吸収された薄桃色に心は染まりその色香で完全に酔っていた。
2008年1月22日火曜日
万物復帰
献身してビジネスらしいものを担当するまで万物復帰に明け暮れていた。その当時、或る時点に於いて突然手の平を返すように天国は出来るものと信じて疑わなかった。それは私だけではない。殆どの食口がそう信じていた。その日その時までこの活動をし続ける運命にあると思われた。最初の頃は新鮮さもあって走り続けた。しかし元来人と接することに極めて臆病な性格である。そう長くは続かなかった。それ専門の部隊に入ってからは成績順位最後尾を頑なに死守し続けた。この単純な歩みがどうして出来ないのか。真面目にやれば実績はそれなりに出る。しかし自分には苦痛以外何物でもなかった。硝子細工のような自分の繊細さがそうさせた。自分に対する疑いの表情を直視しなければならない苦痛。相手の目の中に様々な詮索がうごめくのを見、早く出て行ってくれと言わんばかりの完全否定の刃先が自分の胸のうちを突き続ける。その苦痛を日がな体験し続けなければならない。朝の出発は恐ろしくて震えが止まらないし夜には全身創痍で寒気がした。心の血が滴るのを毎日のように味わった。死ぬ気でやれば出来るだろうと発破をかけられるのだが、ある意味そこで腹を切れと言われる方が正直楽だと思った。今でも身体の調子が悪かったり熱を出したりしてうなされると決まって、この当時の夢を見せられる。月一の全員集合でチーム毎の成績発表が恒例だった。成績の順番に立たせられる。最後尾の自分は居並ぶ兄弟の視線をまともに味わう。この時が最高の自己否定であった。これを甘受することで私の信仰はそれなりの成績で安堵を覚えている他のメンバーのそれを超える。その確信を持って最下位のレッテルを自分に貼り続けた。物心ついて以来、神経回路に支障を来たす程生きることの意味を問い続けた。そしてみ言葉に巡り会えた。当時創造の原理は自分なりに捉えることはできたが、しかし罪という言葉が出てくる。自分が罪を抱え許しを必要としているという感覚が理解できなかった。許しを得るための蕩減の歩みである以上、その感覚の欠如は全ての活動をして苦痛以外何物でもない。悪行三昧の成れの果て、この道に来たのとは訳が違う。何度堕落論の講義を受けようともどれ程あなたのここが罪から来るものだと指摘されようが罪の認識に対する疑問は残った。自分の中に良心に恥じる恥ずかしい思いはあっても罪の感覚とは違うと思った。み言葉の本質が入りようも無く、訳もわからず一方的に寄せ集められた群れは神霊とは別のところでうごめく唯の無知なる烏合の衆でしかなかった。イエス様の救いと許しを受け入れ神霊に満たされているクリスチャンとは比べようも無い。自分の霊的背後を整理もされず訳の分からない霊界を抱えてみ言葉の本質を知ることなど許されてはいなかった。しかし忘れてはならないのは自分でも見過ごしている針の穴ほどの一点をご覧になり条件としてご父母様との縁を頂いたという事実だ。その一点にかけられ、地と汗と涙を代価に手繰り寄せられた食口ひとりひとりである。
2008年1月20日日曜日
セクハラ
突然フロアーマネージャーから緊急ミーティングを開くから来てくれと連絡があった。何事かと不安な様子を隠せず中途の仕事を投げて来てみると差ほど現場の空気に緊張感はない。どうも事件ではないらしい。フロアーマネージャーに目配せして何事か聞くと暗い顔つきで口を開いた。あるサーバーが従業員からセクハラを受けていると報告を受け、すぐにでもそのサーバーは警察関係にレポートしかねない勢いなので急いでミーティングを開いて対処したほうがいいと言う判断からだ。その通りだった。先ずサーバー皆を集めその報告をもとに男性従業員の方へ話しを進める。サーバーの中には男性従業員も何人かいる。しかしその場は勿論女性ばかりで、その中に自分がいることがどうも場違いなようで気まずかった。申し立てたサーバーは奥の方に座っていた。東洋人なのだが南米系の顔立ちで、特に憂いのある目が印象的なのが働き始めた頃の感想だ。ずっとセクハラを受け続けていると言うが、今の今までその素振りは感じなかった。勿論彼女から何ひとつの報告も受けていない。直接言い寄られたり触られたことはないが個人的なこと体にまつわること等、明らかにセクハラだろうと言える内容を次々口にした。昨日まで楽しそうに働いていたのが嘘のように被害者意識に染まっていた。目は泳ぎ身体も声も震えていた。女性は集まると理屈抜きで同調する。彼女が言うそこまでの事は無いにしろ、ほかのサーバーもあれもセクハラこれもセクハラと、嫌な思いを味わった全てをセクハラにこぎつけて息つく暇なく話始める。なんとも女性の醜い一面を垣間見た。流石にフロアーマネージャーだけは冷静だったのが救いだった。しかし、その彼女の目を見ればわかるように寂しい人間である。人に拒まれるのを極端に嫌いその反動として我知らず馴れ馴れしく人に対する。本人は気づいてないと思うがどう見ても従業員間の関係を超えていると思われる動作が目に付いた。ホームメードだと言って手料理を持ってくる。それは別にいいのだが手が塞がった従業員に直接口に持っていったりする。何か聞いたり尋ねたりするときもイントネーションに媚が含まれる。何かにつけて危なっかしいのだが敢えて注意したりすると薮蛇で、何ともセンシティッブな内容なので様子を見るしかなかった。子供はいないが旦那はいる。時々迎えに来ていたがおそらく旦那は苦労していると思う。この手の女性は理屈は通じない。店を預かる者として火の粉がかからない様に毎日点検する必要がある。彼女の違う人格が現れたような手の返しようが脇の甘い彼女の唯一の護りの行動なのかもしれない。
2008年1月18日金曜日
故郷
四方をなだらかな山々に囲まれた郷土は、その周りの町や村とは変わった趣がある。中国山地の山並みに埋もれる盆地のその中で、子供の頃は下界の街のことは何も知らずに生きていた。そこは明らかにその周りの環境や状況とは異にしていた。小学校に入った頃トンネルが開通し何処に行くにもそこを抜けていくようになったが、盆地というどんぶりの中と外では五感を超えて感じる何かが違っていた。背中に何か気配をいつも感じて生活していたし、開放感という言葉の意味がわからないほど身体全体に或る縛りを掛けられて暮らしていた。しかしそこの空気を吸い水を飲み、飯と菜っ葉の漬物で育った自分は郷土の空気と水と土で出来ている。年を経るに従い土塊(つちくれ)の記憶や想いが多くを語り始める。川や雑草や田畑の匂いが全ての記憶を再現する。昨日何を食ったかは忘れても、遠い昔に膳代わりの木箱から茶碗を取り出し、御粥を注いでもらって口にしたときの感覚が昨日のようにありありと現れる。全てが質素だった。夢や希望を持つことさえも贅沢に思え自然の力が生活することの大半に関わっていた。春には雪解け水が鈴のような音をたて流れ始め、フキノトウが雪を割って頭を覗かせる。目に確認できる勢いで出てくる様子に生命の息吹を受け取る。初夏には草木が何の遮るものも無く繁殖し青々と葉を広げ始める。そしてその生命力を抑えきれずむせるほどに匂い立つ。夏も濃くなると容赦なく浴びせる太陽エネルギーを持て余し、広げた葉が熱で焦がれ始める頃合には夕暮れに差し掛かりヒグラシが鳴き始める。その音色の波長は万物の内に染み入り篭った熱をしんしんと冷ます。そして秋になるとそれぞれのひと夏の人生の実りを、万物それぞれの色合いと形で宇宙に差し出す。冬には霜が降り、雪が舞い、全てが雪に覆われ生命が閉じられると、万物は内なる思考を始める。内的準備のこの思考期間を与えられる草木は熱帯のそれより神霊に満ちている。四季の流れの中でそれらの存在に埋もれていると万物の力に劣る人間の弱さが否応にも指摘される。万物の神霊に満たされる人間ではなくその生命力に圧倒される村の人々でしかなかった。当時の住まいも自然に苛まされ、どこの家屋も夜露をやっと凌げるようなものだった。雨が降り始めるとわらを広げたぐらいの隙間だらけの藁葺き屋根はあちこちで雨が漏る。夏場は気味悪い虫が所構わず這い回る。すすけた天上に何か光るものを確認したかと思うとそれがゆっくりと垂木にそって移動し始める。日の光が届くところまで移動してやっとそれが何か確認できた。太い長いものが柱に巻きついていた。冬の吹雪く日は寝間の中まで雪が入り込み、軒下までの積雪であばら家はミシミシと音をたてた。そんな自然脅威の中で、自然に圧倒され自分の表情のなかに笑顔はなかった。いつも怯えて暮らしていた。今も故郷を訪ねるとその時の空気感が思い出され身が竦む。この歳になってある程度の知恵がつき、改めて故郷を観察すると、神様も手を付けられずサタンも手付かずの自然の摂理だけがとうとうと流れていた。その流れの中で息をすることで精一杯の状況の自分にも、神様も距離を置かれサタンも手を付ける意味もなく、うまい具合に忘れ去られた状況に置かれた自分がいた。
2008年1月14日月曜日
活きた会議、死んだ会議
会議の場で社長の話を聞けばその意味することは良くわかる。そこにTPの想いが伝わり感じられる。しかし一段降りて経営状況の話になってくるととたんにビジネスライクな事に終始する。そこにTPの想いが入る余地はない。売上げ一辺倒、利益一辺倒の世界である。TPの想いを汲んだ社長の話と経営状況の会議との間に大きなずれが見える。そこに有機的関係は見出せない。ビジネスはビジネスだという感覚を誰もが当然のようにその根底に持っている。その様を見れば気持ちが悪くなる。死んだ言葉のやり取りの中に自分を置くのは苦痛極まりない。まだ社長に怒鳴り散らされている方が生きた心地がする。見えない堰を取り払い、TPの想いが荒地の隅々まで行き渡り染み入る時に全ては息を吹き返す。TP直属の企業体でありながらその想いが行き届き、意のままに動かすことが出来る四肢とはなっていない。そのもどかしい思いの理解できる者がどれだけいるだろう。不毛な会議を何度重ねてもそこに泉が湧くことは無い。本来あるべき生命の基を見失い幾ら身体や頭を使って利益を出してみても、それは天が取ることが出来る代物ではない。
2008年1月13日日曜日
実子としての店
我々の店以外で食口がやっている店も何件かある。経営状態はそちらの方がずっと良かったりする。二件三件と増やしているところを見ると、明らかに我々の店とは気合の入れ様が違うことが判る。なんとも情けない実情ではあるが現実はそうである。では我々の店と他の食口のやっている店の違いはどこにあるのか。それを把握することによって公的な位置を与えられた事の意味を知るようになる。うちの店であろうが他の食口の店であろうが外的には同じ事をやっている。そこでオーナーである食口が信仰篤い人だったりすると我々の店以上に献金してたりする場合もある。献金は少しでも多いほうが良いに決まっている。しかしより献金したからといって天がより関心を持つとは言えない。どんなに放蕩息子で手に負えなかったとしても幾らでも貢いでくれる他人に比べることは出来ない。息子は息子であり他の何にも代えがたい自分と一体不可分の関係にある。銭金の問題以上の関係性が天と我々の店にあることを認識する必要がある。TPの形を変えた真の愛の対象として我々の店はある。ようするに天の主管下にありTPの意識の中にしっかりと位置づけられている。ペーパー上の名義人が誰であるかは意味が無い。他の食口の店が庶子であるなら我々の店は実子である。TP直接の愛の主管下にある。それを理解すれば店に対してどういう意識を持つべきかは自ずとわかってくる。本部のやり方が悪い、我々への待遇が悪い、解かってくれないとぼやく前に天の店の本質的価値を認識し自分は任せられたものとしてどう天の願いに応えていくことが出来るのか先ずその姿勢から正す必要がある。
2008年1月12日土曜日
生きた店、死んだ店
12月は前年比で一割の下げとなった。過去十年下げたことは無い。特にここ5年の売上げ増しは常に一割を超えるものだったが流石に昨年のサブプライムローン問題から端を発した経済悪化が響いてきている。住宅資産の価値下落はいかなる世帯にもその影響は襲い掛かる。如何ようにも借金が可能なキリギリス生活は終わりを告げた。気の遠くなるような長い厳しい冬が始まった。年が明けてもオメデタ気分は無く売上げは伸びない。平日は時間帯に拠るが客数より従業員のほうが多かったりする。手持ち無沙汰で突っ立っている従業員も中には居る。例え客は少なくともそれで従業員の動きが緩慢になるのは良くない。暇でも仕事を見つけさせ身体も頭も働かせる必要がある。魚の王様、鮪は死ぬまで泳ぎ続ける。止まる時は死ぬ時だ。我々も動き続けることを運命付けられている。とにかく動き続けることだ。身体も頭も心も。ボーっとした雰囲気は来る客も逃がす。気が張りつめ一生懸命さが漂う空気に人は吸い寄せられる。忙しい店は従業員もよく動いている。その一生懸命なオーラで更に客は集まる。繁盛店にはその相乗効果が見事に回っている。店がどういうオーラで染められているか霊視できる自分となる。太陽光から受ける朱色を感知できれば人を呼び寄せるエネルギーに満たされている。看板は赤を主体にしたものがいいし、店内でも赤を要所要所に使ったほうがいい。ついでに生命力のない従業員は赤いパンツでもはかせたほうがいい。最近オープンキッチンを良く見かけるがオープンキッチンの良さは料理行程を客が見ることが出来るエンタテイメント性にもあるが、それよりもキッチンの火を見せることに大きな利点がある。火を見る事が生命力を喚起させる。生命力が溢れてくると食欲も増える。炎に集まるのは人間の本能だ。確かにレストラン業界は今全体的に厳しい状況にある。だからこそ本物が残る。自分が信じるところのレストラン教会を打って出る絶好の機会である。売上げ、利益は後から付いてくる。
2008年1月9日水曜日
言霊
言霊という言葉がある。言葉に霊が宿る。霊が言葉となって現れる。どういう言葉を口にしているかで自分の霊的背後を見ることが出来る。敢えて意識してある言葉を口にし続けることでその言葉の霊力を得る。汚い言葉は品性を落とし、美しい言葉はその人を輝かせる。思考は言葉を繋いでなされる。思考することは霊的な創造行為である。人間がこの世に紡ぎだした物で思考を伴わずに出てきたものはひとつとしてない。一生懸命やっているが結果が出てこない。我々の今の状況だ。生み出せない原因は思考停止にある。やっていることの意味を思考する、考える必要がある。自分の中で納得が為せたとすればすでに結果は出ている。要するに理解できない、自分のなかで腑に落ちない時点では結果はありえない。我々はみ旨というとてつもない願いを受けて集められ活動している。この世で使われている言葉ではその創造活動は出来ない。み旨を為すに於いてみ言の理解は不可欠となる。その理解度が歩みの価値を決める。何度も何度もみ言葉を訓読しながら、深く深く祈祷をもって神霊に辿り着くとき父母様が勝ち取られたその言葉の霊を父母様と共有できる。祈っても祈っても手がかりが掴めず、砂漠を歩き続けるように悶々とした過去は誰もが経験している。しかし後天開闢の時代に既に入った今、全ての神霊は地上人の目線にまで降りている。霊視できるとすればその視界は一変している。雪国で育った自分がその状態を譬えるならダイヤモンドダストを目にするようだと表現できるだろうか。冴え渡った冷気が吸い込まれるような青空一面に煌く様は思わず息を飲む光景だ。心を空にして尋ねれば煌く光の冷気を呼吸するように言葉の意味が染み入る。神霊の溢れた言葉をもって歩みの動機とし、肉体や感情体で経験する事柄を神霊の溢れた言葉で浄化して天に報告する。
新コペルニクス
一仕事終え4時間かけてDCに帰る。ターンパイクのインター手前辺りから小高い丘陵地に入る。この辺り周りに遮るものはなく前方180度見渡せる。暮れかかった空に電飾で浮かび上がったマンハッタンビル郡の山並みを左に暫く見ながら、まさに今地平に掛かろうとする大きなオレンジ色の夕陽に向かって走る。朝陽を目にする時は生命誕生の陽的感覚を覚えるが、夕陽は安堵に満ちた静的感覚を味わう。為すべきことを終えて人生を締めるときはこの感覚を味わうのだと思う。安らぎに包まれながらの運転は全く苦にならない。波が治まる内なる心の湖面を感じながら自分を中心に世界は回っていると実感する。科学によれば太陽系は銀河系を数億年かけて周回し、地球は太陽の周りを周回し、そして地球は自転している。人間は地表にへばり付き自転という恐ろしいほどの速度の中で日常を送る。しかし私は逆なのだと思う。自分を中心点として地球は動いており、太陽は地球の周りを周回する。そして太陽系が動いているのではなく銀河系が動いているのだ。要するに自分を中心として宇宙は回っている。他の人にとってどうであれ自分にとっては正しい。自分を中心に宇宙が回っているように内外に起こりうる全ての物事も自分を中心に起こっている。だから何一つ偶然はありえない。全てが必然として自分を神願う自分たらしめる為起こっている。そう悟れば心に鎧をつける必要はない。全てを受け入れ喜怒哀楽の経験を頂く。心の様相が静かな時は素直にそう思うが、ひとたびかき回され底に沈んでいるサタン的要素が表層に現れてくると自分を固く閉じ込めてしまう。自分の内なる中心軸を失い地球の自転に振り回されてしまう。
2008年1月7日月曜日
天正宮
この世に存在するものはあの世(霊界)でも存在する。しかし次元を変えより鮮明に存在する。神的存在界すなわち天界のはるかな地平線の上に神殿(天正宮)が高級霊的存在のために現れ、そこには神々の最高の芸術的成果である神的存在の摸像が人間の理想像として安置されている。勿論これは私の言葉ではない。霊的感性を開いたある精神学者の表記だ。地上に天正宮が建設されたが霊界に於いては地上のそれに比べることもできないほど荘厳な天正宮が雲の上に燦然と輝く様を遠目に垣間見ることができる。信仰年数を少なからず重ねてきた食口でありながらあまりにもその内的霊的無知故に、自分がどれ程恐れ多く誇りうる位置にたっているかを知らずに毎日を送っている。自分を引き上げようとする絶対善霊に囲まれながらも頑なに過去の因習体質思考心情感情の箍にしがみつき今の安定的ぬるま湯にどっぷり浸かっている。それが崩れ去るのが時間の問題であり、もはや自分の信ずるものが唯の蜃気楼であることに一時も早く気付かないと先が無い。自分自身の価値がどこにあるか、前にも記したが真の父母の血と汗と涙を引き換えに自分はサタン的な領域から放たれ神様の領域に存在させていただいている。それ故に自分は信仰を繋いで来れたのでありその御方の代価故に価値がある。そこに少しでも気付くなら思考様相は変わって来るはずである。心情の持ちようも勿論変わる。意志のあり方も変わる。この地上で肉体生活を送りながらも新しい宇宙の次元に移行できる。天正宮建設に僅かながらの基金を納めたとしてもそれで自分との関係性が証明されるものではない。自分がそして家庭が神様が尋ねてこられる神殿となっているかが天正宮を拝謁できる資格となる。
2008年1月6日日曜日
使命を知ると言うこと
自分の使命が何であるかこの群れのミッションが何かをしっかりと認識する。そこに揺らぎがあると思考は彷徨い続ける。思考が定まらなければイメージとして形作ることはできない。イメージが先ずあって創造できるのであって自分の中に形としてないものを作り出すことはできない。無から有はありえない。レストランの摂理は地上に展開できる神様の基地である。この場をどれだけ繁殖させたかアベル圏としてカイン圏を引きずり込んだかが問われる。そこに戦いが繰り広げられる。神と悪魔との争奪戦を見ることが出来なければこの世的感覚に長けたものが外的要因だけを並べて展開への意思を削ぐ。その場には神様が介在できる隙間は無い。サタン的なものが時空を占領している。そういった認識があって然るべきだがしかし今の我々の群れにはそのような認識はない。霊的なものが先ず中心とならなければ全てが奪われていくにも関わらずそのような認識はない。我々の活動形態に霊的な生命、父母に繋がるものは見出せない。ビジネスビジネスと口にするがそのシステムはサタン的なものが最も活動してきた本拠地である。この世のビジネスに迎合するならそこに神様が介在する摂理とはなりえない。サタン的な要素に染められたビジネスという信仰を奉る神不在の宗教だ。分別という言葉を我々は持っている。自分自身を分別してアベル的なものにカイン的なものを屈服させていく。自分自身にそうできる感性が備わっていながら自分という枠を外した場ではそういう感性を無力なものとして扱う。ビジネス信仰、売上げ信仰、利益信仰はこの世的成功はありうるけれど摂理が向かう方向とは異なる。神様と関係はない。我々はもっと霊的なものを重要視する必要がある。分別できる霊的感性を磨く必要がある。どんなに活動しても汗水たらしても、どんなに儲けてもそれを神様が取って下さるのかという問いかけもなしにこのまま続けても意味は無い。そこで今の自分に何が出来るか、どういう役割が願われているかをしっかり把握する必要がある。
経済の正体を霊的感性で視る
サブプライムローンの問題はアメリカ経済はもとより日本、中国を筆頭に世界規模の影響を及ぼす。それは過去の様々な経済危機の比ではない。やもすれば世界経済の血流をズタズタにしかねない。この悪徳ローンだけにスポットを当てても何も見えてこない。自分の思いではルシファー的(サタン的)な世界集合意識が目論む混沌と破壊が目に見えてきた、正体を現してきたと言える。慾まみれのどす黒い血に染まってしまった既存の経済の流れ、これを浄化することは奇跡でも起こらない限りなしえない。正体を現し始めたのは2000年のITバブルの崩壊に端を発し2001年、9.11そしてイラク戦争この辺りから皆の意識、特にアメリカ人の慾まみれ意識は正気を逸する。エンロンを代表する企業会計不正疑惑は一部の役員が会社を完全に喰い物にしていることを露呈した。しかし誰も非難できない。皆が皆そうなり下がっている。そこに会社を思う、社会を思う、国を思うなどという言葉は死んでいる。株式市場は賭博場と化した。誰も株を買う時その企業を支えようと思う殊勝な者も団体もいない。持ち家政策で課税優遇を打ち出したが投機の場を不動産市場に移行されたに過ぎない。株式市場ではキャピタルゲインに対して35%の課税が取られるため課税優遇にある不動産市場に慾の目が向かうのは当然の流れだ。一気に住宅投資にジャブジャブ資金は投入される。 住宅建設は史上最高となり中心地から3時間を要する田舎にも山肌を削り住宅を建てていく。この辺りでも前は緑が半分以上占めていた町の造りも隙間隙間にコンドや住宅用地を建設確保するため緑もまばらとなった。投資目的で買われた住宅やコンドは人の気配はない。家は凄まじく立ち並んではいるが明かりは灯らない。温かみも無い愛の無い薄寒い館に住むのは悪霊と相場は決まっている。世界的な資金のだぶつき、ユーロ高ドル安、欧州を中心とする外国人のアメリカ不動産投資が住宅バブルを更に膨らませる。欧州の富裕層はフロリダを、中国人はシアトルバンクーバーを買い漁る。アメリカでも地道に働くより住宅投資の方が楽にそして大きく資産を膨らませることが出来る。誰もがその慾の熱で狂気となった。終いにはNOインカムNOジョブでもいくらでも資金供給を得ることができ住宅投資を始める。それを可能にした悪のツールが証券化という金融技術だ。
2008年1月2日水曜日
家の花
教会から足が遠い自分でも神の日に教会に行かなかったことは今までに一度もない。2008年の出発として敬拝を捧げに行くつもりではいたがある願いが届き今回は違う一年の出発となった。店に祭壇を設けお供えを捧げ年頭の神の日の儀式を行った。誠精を尽くして祭壇を供えると霊界の備えられた場にも神様と父母様を迎える場が祈りに応える形で用意される。そこは霊界に於ける神様と父母様を迎える霊的店となる。霊界と地上界が通じた形で客はこの店に訪れることで神様と父母様との因縁を結び真の愛に触れることが出来る。客は我知らずこの店に足を向けることとなる。この店が真の愛を受ける場であることを霊的に感知する。儀式(セレモニー)を通して神霊を戴き父母様の想いが留まる。父母様とのより深い関係性が店に与えられる。宇宙に根ざした発展的生命力(エネルギー)を得る。そこに働く従業員は我知らず深い認識を覚える。どう役割を果たすかイメージを得る。知恵を得る。天的風水が配置される。父母様の霊を頂くと必然的に関係性を持ちたい多くの霊人達が店の中に溢れ、入りきれない霊人達で店の周囲は覆われる。誠精を込めた訓読が霊達へのこの上ないご馳走となる。霊が集まるところに人は集まる。繁盛店の入り口を霊的に視るなら霊達が凄まじい勢いで入っている。それすら感知できなくてみ旨を歩む資格はない。我々のレストランは明らかにレストラン教会である。どの教会よりも客という信者でいつも溢れかえる父母様に会える家なのだ。TFは庭の花より家の花がいい、家にしなさいとはっきり言われた。その意味がようやく理解できた。
レストラン教会 (2)
我々にとって客商売は商売のみを中心として考えるとTFの願われた方向性とは違ったものとなる。実は商売は方便で客と接すること自体に願われた本質がある。生きてみ旨を歩むと言う意味は身体をもって侍ることを意味する。為に生きる最高の活動はやはり伝道(人にその道を伝える)で人に天との関わりを持たせてあげることに集約される。そういう観点からレストラン活動を考えるとどの業種業態よりも人に接する機会を持つことが出来るし普通の小売業よりもより深いところで人に接することが出来る。ビジネスをやっていることの意味が利益を出すことだけにあるのかと自問自答してきたが、より多くの人との関係をもつことにこそ我々のビジネスの意味がある。継続性や発展性を持たせるために利益の出る体制は必要ではあるがそれ自体の為にやっている訳ではない。卸し部門、小売レストラン部門とあるなら、レストランが主体的な立場であり卸はそれを支えていく立場ということになる。卸の方が基盤も出来ているしボリュームも大きい。だからと言って頭の痛いレストランは投げて卸しをビジネスの中心にと考えるのは天の願いとは違ったものになると思う。食事を作りに行った折、拝謁して尋ねられたことは何と言う名の店であるかということと一日何人の客が来るかということだった。屋号は聞かれて当然としてその次に尋ねられることは売上げがいくらで利益がいくらかと聞かれるのが普通のビジネスの設問である。しかし敢えてそれを聞かれず人数を尋ねられたことを見逃してはならない。この社会に直接接するレストランに対するTFの関心事は何人と接しているか、という伝道対象者としての客数だと思う。TFの想いを受けて客に接する必要があり、TFの想いが伝わるような店作りをしていくことが我々の使命である。
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