2009年2月26日木曜日
妻のかたわらで
病はひとりで背負うものと言う取り決めは、どういう理由からそうなったのだろう。妻が横で苦しそうにしているのを見ながら、夫として何もしてあげることが出来ない。自分の無力さをとことん思い知らされる儘に、消化しきれない思いや感情が握りこぶしを硬くし奥歯をかみ締めさせる。いっそこの身体を捨てて、横たわっている妻の身体に入って行き、苦しめる元凶の首を締め付けてやりたい。小刻みに震えながら妻の身体の一点を注視している自分がいる。忘我の自分に気付くと、いそいで視点を逸らしてその体制を振りほどき、大きく一呼吸した。気を取り直して座り直し、身体をさすってやると、決して楽になる訳でもないのに、ありがとうと消え入りそうな声で言う。そんな言葉など今の今、聞きたくは無いだろう。居た堪れなくて逃げ出したくても、この感情の逃げ場は何処にも無い。彼女への責め苦を、変わって被れるものならどれ程有難いことか。痩せ細った指が意味の無い動きをする。薄い胸板が不自然な凹凸を繰り返す。むくんだ顔から読み取れるものは無い。夫婦は一つだと言いながら、一つになれない不条理が妻との間に厳然とある。彼女は肉体の苦痛に耐えられると踏んで、この責め苦を与えることが許されているのだろうか。私は魂の責め苦に耐えられると思われて、この感情を味わうのだろうか。明らかに願わぬものを受け取りながら、そのことを感謝できる時が来ると信じる、そこに至るしか救いはないのだろうか。責め苦を味わいながらも、感謝の念を供えることができるのかと問いながら、ヨブの信仰と同じ路程の中にいる二人であると気付き始めた。その意味に於いて、二人はひとつになることが出来るのかも知れない。肉体の痛みであれ、心の痛みであれ、甘受し続けるという試練の路程に、同時的に二人は没頭させられている。
2009年2月25日水曜日
思考について考える
毎日がただただ過ぎて行くと感じるようであるなら、本質的な地上生を送ってはいない。明らかに内的霊的実りの内容が、自分の中に備わっていくのを実感として手応えを覚える、そんな歩みとならねばならない。その為に主体的意識的、更に能動的な生を送る必要があり、それなりの修練が必要になる。修練とは魂の修練であり、それは主に魂の活動である思考と感情そして意志の修練だ。思考活動としては、日頃いろいろ思う事柄というのは能動的思考ではなく一方的に思わされているだけのことで、それは思考とは言わない。ひとつの事柄に対して感情や思い込みを捨て、それが意味する隠されている本質を問い続ける事を、思考すると言う。いろんな苦労や困難に出会うと、それに対する嫌気ゆえにどうして自分に降りかかって来るのかと問い始めるが、そう言った感情からの問いは深い思考には至らない。ひとしきり悩みながらその感情を超えてこそ、事柄の本質への思考を始める事ができる。み言を鵜呑みにして走ってきた兄弟が、そのままである事を神様は願われない。鵜呑みは所詮借り物でしかない。借り物の信仰であり、借り物の侍る態度なのだ。み言を訓読しながら、その本質に出会わないとするならどうして生命のみ言、愛のみ言と悟ることができ、自分をみ言で創り返る事が出来るだろうか。み言を理論理屈でこね回せと言っているのではない。み言が自分を新しく創り返る事が出来ると言う確信の境地を問い続けなければならない。み言の本質に出会おうとするなら、み言の中で思考を試み、み言の中で感情を感じ取り、み言の中で熱い衝動を覚える必要がある。み言を外から眺め文章を追っても、み言の中に入れない歯がゆさや情けなささえも覚える事はない。目を通した安心感、訓読した満足感、それはサタン的なものに組み入れられる事柄のひとつである。
2009年2月24日火曜日
病に想う
強烈な頭痛と吐き気に襲われる。自分だけは罹るまいと気合を入れていたつもりだったが、心配事が重なりダウンしてしまった。そうは言っても妻を入院させた後帰ってこないと仕事は幾らでも溜まる。危ない思いをしながら何とか帰ってきたものの、アパートに着くなり潰れてしまった。何度罹ってもアメリカのフルーは強烈で、身体がへたり込んで言う事を聞かない。誰も居ないアパートの部屋の中で、一人おまるを抱えてうな垂れている姿は情けない。せめて条件だけはちゃんと済ませたいと思い、気合を入れ直して御写真の前に立った。完遂できるか心配だったが、いざ始めると結構身体は言う事を聞いてくれた。ぐっすり眠れればすっきりするのだろうけれど、それができない。横になっても訳のわからない思考が勝手に活動する。健康状態だと、眠りに落ちる時魂は気持ちよく身体から離れ霊界に赴く。睡眠は身体を休めること以上に、地上界で活動する為の霊的要素を受け取る為にある。熱があったり吐き気がしたり体調が良くないと、魂は身体から抜け切れない。それが理由で浅い眠りの中で訳のわからない問いを繰り返してみたり、言いようの無い感情に包まれてみたり、身体は臥せっているのに行動意志を働かそうとする。病気はある意味、身体という一つの存在の反乱だろう。身体を身体として築き維持している存在がある。人間としてこの身体の中に入る事を許されているだけで、自らが築き上げ維持している身体ではない。自分の意志を伴わず消化活動、循環活動、様々な生命活動を為している。その活動たらしめる為の存在がある。血統的遺伝的なものであれ自らの不摂生であれ、病気は人間と言う霊的存在の、身体に対する霊的内的取り組みの不正にある。あくまで結果であって、今現在の取り組み方に問題があると言う訳ではない。急な病に伏せながら、この身体あっての今生の経験であり喜びの体験であり神様御父母様に侍ることができるのだと、感謝の想いを供えた。
2009年2月23日月曜日
ドライブ
妻が家庭を持つ為にアメリカに来たのは二十三年前。ワシントンからノースカロライナの片田舎まで五時間かけてバスでやって来た。すぐにもレストランで働いてもらったので二人だけで観光に出かけたことも無い。一、二週間たった頃だろうか、言葉が通じないのと慣れない仕事で基準を下げた。店が終って何処かに連れて行けるような所が無いか頭を廻らしたが、気の利いた所は思い浮かばない。結局彼女を促してドライブに連れ出した。飛行場まで連れて行って其のまま帰ってきただけだが、帰った時ありがとうと言ってくれた。あの時のように妻を連れてドライブしている。あの時のように助手席で一言も喋らず、声をかける雰囲気でもなく、更に今は目的地に着くこと以外何も頭には無い。お互い敢えてそうすることにしている。メディカルセンターの急患までの小一時間のドライブだ。感染したのか数日前から体調を崩している。薬で免疫力を抑えている為、感染した場合は要注意となるし、臓器まで感染すると手に負えないので処置が急がれる。お互い心配をし始めるときりが無い。だから敢えて今やることだけを頭に入れて、後は捨てる。急患に着くまでは唯のドライブだ。彼女が基準を下げて連れて行った、あの時と同じドライブだ。背もたれを少し傾けるように言ったから幾分楽そうにしている。環状線は昼の間は渋滞でフリーウェイとは言えないが、五車線が遠くまで見通せる深夜のドライブは快適だ。アクセルをふかし気味に、追い越し車線を快走する。何かある度にその都度片道70マイルもあるメディカルセンターに向かうのだが、近くにあればとどれ程思ったか知れない。しかし今はこの距離が有り難いと思うようになった。高速を降りると、シートを座りなおして大きく息をする。着いてからの段取りと心構えを準備する。妻も私に合わせて背もたれを直し、眠れた訳でもない目を開ける。ダウンタウン特有の排気があちこちで蒸気を上げ、オレンジ灯の鈍い光に輪郭を表す巨大な建物群の一つに、思い切りハンドルを回して横付けした。
2009年2月21日土曜日
今日の想い 60
堕落世界は唯物的自己中心的世界である。価値基準を金やものに置いているのであり、判断基準は自己中心の自分にある。日々の生活の中に於いて、全ての思考、感情、意志がこの信仰に浸透されている。み言を通して価値の本質を知らされてはいるが、堕落の価値基準、堕落の判断基準が魂に染み付いているので、既に生活の中に習慣化されていてそれを否定する事は死ぬ事に等しい。み言による信仰を選んだということは死ぬ事を選んだということだ。み言によって触発された、しかしまだ虚ろにしか見えぬ本質の自我を自分とし、この世の自分とは決別することを選んだということだ。それがどういう意味であるかを信仰生活を辿りながら知らされる。自分の内なる中で戦いが繰り広げられる。真の父母との微かな因縁を頼りに、自分が住まうこの世を牛耳っているサタンの群れに戦いを挑むことになる。内面の熾烈な戦いに怖気付き、肉身と肉心の故郷であるこの世の自分に留まろうとするなら、それはこの世の君達が必死でこの身を引きずり戻そうとさせた結果であり、その結果を見てサタンはほくそ笑む。摂理として天からの要求が届けられ、サタンに挑む前線兵士が我々ひとりひとりであり、戦場は我々の内なる世界だ。天の摂理を受けるとき、先ずこの事実を祈り、尋ね、熟考しながら捉えることが必要だ。自分に染み付いているこの世の思考判断や感情反応は、摂理がこの世の安全圏を脅かすことで、大変だ大変だと言うネガティブな在り様に満ち満ちている。それは既に負けを意味している。闘わずして白旗を挙げている。振り回されるであろうこの世的自分を如何に説き伏せるか。それこそが自分に住まいこの世を支配する霊との戦いの初戦なのだ。
2009年2月19日木曜日
今日の想い 59
今、本物かどうかが問われている。一人一人の人間存在として善なる要素、愛の要素を受け取りながら、人間理想を実らす工程に在るのか。それとも悪の要素、自己中心的我欲の要素に執着しようとするのか。もはや実った果実なのか腐った実なのか、羊なのか山羊なのかを分ける最終段階に突入している。経済の先行きを不安視して今手元にあるものだけでも手放すまいと囲い込んでいる。世帯にしても会社にしても国にしてもそうなっている。抱え込んだまま硬直化してしまった手をどかすことは、余程の事が無い限り難しいだろう。金や物に対してもそうであるけれど、魂に染み付いている堕落性による感情、更に安楽な事情圏や環境圏までも抱え込んで手放そうとはしない。誰の事でもない自分の事なのであって、信仰年数が長ければ長いほど、自分の落ち着き所を心得ている。要するに自分がコントロールできる範囲内で貢献すべきだと個人的裁量が働く。そうなれば冒険する事はないだろう。後先考えず、むやみやたらに行動すれば良いと言うものではないが、要領ばかりが良くても役には立たない。結局のところ、魂の奥の奥の自分の根源に、御父母様に繋がったものがあるかどうかだろう。感情の動き等の魂の活動一つ一つは、信仰者とは言えないものを含んでいたとしても、天の願い、御父母様の願いを受け入れようとして、苦しみのた打ち回りながらでも最終的に根源にある御父母様への帰依を捨てなければ、御父母様が責任を持って下さるはずだ。2013年までの四年間、天の願いを受ける自分となる為には、この世というぬるま湯から精神的極寒に飛び出す為の、七転八倒の魂の地獄絵巻が繰り広げられる。多くの兄弟が、死んだほうがまだ楽だと思うようになるかも知れない。母の国として世界の国を産み直す解産摂理であると同時に、四年と言う産道を通過しながら、自分自身をも新しく産み直す摂理でもあるだろう。希望の一点は、御父母様が摂理の終着点を示して下さった訳で、ある意味責任分担を完遂した終着点で、この地上を去っても良しと捉える事も出来る。その日その時に死ぬのだと思って、それなら今をどう生きるかだ。
2009年2月18日水曜日
今日の想い 58
昼の光で万物の印象を受けるのとは違う、月に照らされることで万物の別の印象を受け取る。人工の光が電飾や家々から放たれ、夜空から降り立つものに対するバリアをかけている。余程人里離れた所に赴かないと、月に照らされる地上界を見ることはできない。空気が冴え渡った満月の宵、降りかかる月の光でどれほど万物に対する印象が変わるかを、今の子供達は知らない。唯物的にしか見ることができない日の光と、人工の光しか知らない者は、その魂の感情の在り様に深みが見られない。物事に対するものの見方に繊細さを組み入れることが出来ず、情に対する感受性も浅い。月の光は、日の光では目立たず隠れている、万物の在り様の別の一面を明るく照らし引き出す。日の光をプリズムを通す事で、一様に思える光もいろんな光存在の集合体であることがわかる。その一つ一つの光存在が、一つ一つの役割を担って人間に関与している。月に反射されて届く光存在は、太陽光の陰性存在が集約されている。子供の頃、よく母に連れられて夕べの法要が行われる寺に出掛けた。出かける時は西の空が茜に染まる頃であっても、一通りの行事が終り精進料理を頂いて帰る頃は、辺り一面宵に覆われ月も高く上っている。灯篭の薄い光で輪郭をなす山門を潜ると、寺の光は届かない。小さな懐中電灯を頼りに足を進める母の後ろで、頭を母の尻に付けるようにして歩いた。暫く歩くと目がなじんでくる。小路の横からせり出す草木が姿を現し、程なく田畑の広がりや周りを囲む山々が輪郭を見せる。上空を仰げば月は夜目には眩しく、月の青い光で夜空を照らし地上を克明に照らし出す。同じ景色でも昼日中に見る草木や山々とは違う、別の様相を月の光が照らし出す。今にも山は動き、草木は踊りだすかのようなありようだ。光を遮ることで現れる自分の影を追いながら、月から届く月光の精を内側に受け取ると、遠い遠い過去の人間が持っていた本能的記憶が蘇る。宇宙のリズムが、四季に委ねていた頃の生き様が、体の中で活き活きと蘇る。
2009年2月16日月曜日
今日の想い 57
今生に於ける自分の使命は何だろうか。使命というと何か特別な、選べれた人間に与えられた事のように捉える。勿論一人一人特別で選ばれている存在であるし、誰一人意味無くこの世に存在してはいないと自分は信じているが、使命と言うより役割と言ったほうが親近感を覚えるのかもしれない。社会生活をする上に於いて、いろんな役割を担っている。家庭に於いては親であったり、仕事場に於いても自分に与えられた役割があるはずだ。教会という兄弟間に於いての自分の役割もあるであろうし、日本人なら日本人としての役割もあるはずだ。しかし、そう言った表面的役割の背後に本質的な役割を担っている。この世での様々な役割は本質的な役割、使命、今生に生きている本質的意味を担うことの道具でしかない。この世での様々な環境、状況を道具としながら、魂の存在として何を復帰する為に生を得たのか、と問わなければならない。この世に於いて担っているあらゆる役割に共通する、或る復帰すべき内的霊的事柄がある。それが故にこの世に押し出されたのであり、今生を生きようと意志したのである。人生は苦難と困難に満ち満ちている。人生が楽しくて楽しくて仕方が無いと言う人が居るとすれば、間違ってこの世に出てしまった存在なのだと思う。実はこの苦難と困難にこそ、自分が生きる意味が隠れている。目前に現れる苦難と困難、実は偶然に遭遇した訳ではなく、この場この時に会うべくして会った霊存在の表れに他ならない。苦難困難という重苦しい表象を取ってはいるが、ヤコブに天使が挑んで来た様に、霊存在の試練に他ならない。我々は様々な試練を乗り越えながら、即ち様々な霊的存在を打ち負かしながら、魂としてのステージ段階を一段一段復帰している。試練を超えることで受け取る、かつて無い新たな力や心情は、霊的存在が屈服した事を神に報告されると同時に受け取る、神霊的財宝としての恵みであり祝福である。そこまで見通すことは堕落の身に於いては至難の業であるが、そう信じて試練である苦難と困難から顔を逸らすべきではない。統一食口として御父様に訓練された事とは、苦労に対する耐性に他ならない。全く何もわかってはいないが、苦労を当然のこととして甘受する姿勢だけは徹底して訓練されてきた。どう見ても馬鹿にしか見えない者が、サタンに打ち勝つ術を御父様から訓練されて取得している。
2009年2月13日金曜日
今日の想い 56
皆それぞれに抱えている問題がある。悩み苦悶する立場であれば問題を問題と認識するけれど、これを解決した立場から見れば、問題ではなく課題であったと認識できる。問題を解決しようと思うとき、問題を問題として捉えている限りは解決しない。今抱えている問題を解決したのち、次なる課題が何だろうかと問わなければならない。即ち問題を追いかけるイメージに固定されている限りは、問題は常に手の届かぬ自分の前方に位置している。そして問題を飛び越えて次なる課題に照準を当てた時、即ち自分を未来に位置させて後ろを振り向くイメージとして捉える時、問題が降りかかってきた意味と言う問題の正体を見ることができる。その時点で次なる課題の為の一里塚であったと捉える事ができ、解決の道筋は見通せる。問題が解決できるとは、要するに自分を高みに置くことが出来た時のことを言う。目標を高く掲げる事の重要性を指摘することはそれに由来するが、目標を高い位置に置く意味は、降りかかる問題を達成する為のステップアップの課題と捉える事ができることにある。同じ事柄に出会うとき、それをやっかいな問題と認識するか目標達成の為の課題と認識するかは天と地ほどの開きがある。私達は人間としての目標を明確に与えられている。人間理想としての御父様の在り様こそ私達の目標に違いない。自分が魂の存在として、知の働き情の働き意志の働きの明確な理想目標が、御父様として私の前に立っている。それこそ自分理想の姿なのだ。御父様を見ることで、人間理想に立つ自分の未来を見ている。無数の悩み苦悶する事柄に出くわしながら、その一つ一つが御父様に見る人間理想としての目標達成の為の脱皮摂理であると認識できることが、どれほど感謝であり祝福であるか。御父母様という光を追いながら、堕落本性という皮を、試練という石垣のごつごつした岩の隙間に身を擦り付け身を削る事で、一枚一枚剥ぎ取っていく。私達はいつも問わなければならない。御父様だったらどうされるだろう、と言う問いかけを、、、。
2009年2月11日水曜日
知的論理から霊的心情的論理
二月に入ったばかりだと言うのに暖かい日が続く。この陽気に絆されて外に繰り出し、財布の紐も緩くなるのかと思いきやそうは問屋が卸さない。気候に浮かれたぐらいで消費が増す状況にはない。恐らく殆どの店が売上減少に歯止めが利かず、頭を抱えているはずだ。レストランで言えば、ディスカウントだのバフェだの安売り合戦にどんどん突入している。しかし、もがけばもがくほど自分の首を絞めることになるのは分かりきっている。分かりきっていながら、そうせざるを得ない。まだまだ底打ちしてはいないし、底がどの辺りかの見当すらつかない。み旨という観点に立って、我々はどうしたらいいのか。周りと同じようにもがいても、どうなるものでもないだろう。対策としてわかったようなビジネス用語が巷でも飛び交い、内輪でもいろいろ言われているが、頭の論理でああしろこういろと言ったところで、その論理が通じる範囲を飛び越えている。要するにビジネス理論が役に立たない状態にある。別にビジネスだけに限らず、あらゆる分野で今までに経験した事の無い状況に、迷宮のように入り込もうとしている。これまでのように頭の論理という羅針盤では進路も出口も特定はできない。この世でもEQと言う言葉が出回っているが、頭の論理を超えた、言葉にするならハートの論理でこそ新しいパラダイムを泳いでいく事ができる。要するに霊的感性を鋭くし、神霊的な判断やものの見方を備えてこそ、正しい方向性を捉えることができる。地上界霊界は益々接近し、天宙的夜明けが直ぐそこに来ている。今繰り広げられている混乱も、霊界が地上界に降りてきたことによるものであり、霊界認識を持たない限り、今の状況を説明する事はできない。はっきり言って、利口そうなビジネス攻略を声高に押し付けるより、み旨である、為に生きる立場であると自分の位置をしっかりと正して、あとは純粋にその想いを強くしながら、行き詰まっているのであれば条件でも祈祷でも供えながら、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を決意して歩めば自ずと道は開けてくる。
2009年2月10日火曜日
今日の想い 55
抑えきれない感情や湧き上がる衝動から自然と祈りの姿勢に入る。それこそが祈りと呼ばれるものだろう。内面に熱を帯び、祈らざるを得ないと思えればこそ祈るのであって、周りから強要されて、或いは条件的に膝を折っても祈りとは程遠い。日々の生活の中で何が自分を動かし、何を求めて何を中心としながら時の刻みに自分を組み込んでいるのか。昼に何を食べようか、何をしようか何処に行こうか、日常的な事柄のみが関心事であれば祈りもその程度に留まる。日頃の生活意識からかけ離れた祈りをしようとしても、生活の意識の方向と祈りへの意識の方向が異なるなら、自分という存在はバラバラになる。一心一体一念の在り様という概念が捉えられずに、矛盾した今の在り様から抜け出せないでいる。御父母様を真に受け入れ帰依した者は、見える景色も聞こえる音色も違ってくる。同じ地上界に存在はしていても人それぞれが違う世界に生きているし、地上界に生きながら繰り広げられる出来事も経験する事柄も全く違う。しかしながら、何十億という人間の中で、物事や出来事の本当の意味を知って生きている者は少ない。受け取る外的刺激をただ表面的に受け取ったとしても、それは物事や出来事の影の部分に過ぎない。外的表面を突き破って、その中に入り込まない限り本質である正体は現れない。一日という時を刻みながら影の部分のみをなぞらえながら、それを今日を生きたことだと言うなら、人間の意識を唯物的な事のみに釘付けしたサタンの思うままに生きている。御父母様が自分の中で生きて中心的に働かれ、み言が魂の神経活動として思考、感情、意志を左右し、それでこそこの肉体は愛の細胞として作り変えられていく。その人間理想のあるべき姿が見えてくるなら、祈りこそ理想実現の道具としてあらゆる活動(それが日常的些細な事柄であっても、或いは内的活動に於いても)に御父母様から流れる熱い想いが届けられ、御父母様が見ておられる、同じ色彩豊かな景色が広がる世界に住むことができる。
2009年2月9日月曜日
今日の想い 54
子として授かったという意味は、天から預かり私という親の元に教育を受けさせることを任せたと言う事だろう。預かった魂に対して、この世的親という感覚を超えて、真の父母の息子娘として教育すべきだった。しかし自分にそれだけの自覚は無かった。この世の親と同じように、可愛く思い愛おしく思い、この子の為ならという思いは人一倍であったとしても、この世の親としての扱いを超えることは無かった。神様の願い、真の父母様の願いを動機としてそのように接していれば、違った在り様になったろう。しかしそこまでの認識を持つに至らなかった。今ですらそのような認識には至っていない。御父母様の心情圏に立つという意味の、本当のところを掴み得ず、ただみ言を受け入れて欲しい、教会に行って欲しい、祝福を受けて欲しい、子にすれば何々して欲しいという親の望み以上の意味を見出せない。親とすればそれが子を想うことであり与える事だという感覚だとしても、子は親の欲望としか取らない。自分に向かう言葉を愛情として与えられているという感覚なくして、親に対して感謝の想いは湧いては来ないだろう。無条件に与えられている、親としての犠牲を払って与えられていると思える度合いに応じて、感謝の想いの度合いも大きくなるはずだ。祝福を受けた二世達が喝采を浴びる。涙しながら彼らが証する。受けた喜びが二人から眩しく放たれる。彼らの喜びを、親としての喜びを、共に喜ぼうとすればするほど寂しいものが胸を覆う。光の中に組み込まれた魂と未だに彷徨っているのにそれすら認識できない魂、一方を他の親が受け取り一方を自分が受け取る。その違いを詮索し自分を責めようとも、そうすれば親としての自分をも彷徨う魂となり、益々光からかけ離れる存在になるだろう。責めようとする自分の中に、この世的親としての執着心が何処かにあるはずだ。自分のその部分をえぐり出して捨てる、そこからが子に対して本当に向き合う事になるのだろう。
2009年2月6日金曜日
今日の想い 53
目にすれば吸い込まれそうな真紅の花びらが、触れれば溶けそうな微細なシルク状の表面が、私の目を釘付けにする。その茎を切れば滴るであろう緑の植物樹液から、その花は形作られ赤く染められる。そのように人間の中に流れる血液で、人格完成をなし人間理想として花咲かせる、そういう本来の高次の存在としてのあるべき位置や担う衝動を、人間は失っている。植物樹液の流れの背後に、枝を伸ばし葉を広げ花を咲かせようとさせる存在の、強い衝動を受け取る。見様によっていろんな表情を見せる、その深みのあるバラの花びらを見つめていれば、魂に受け取る熱いものが伝わってくる。薄汚れた地面に散ってしまった花びらでさえ、捨てきれない情熱を発散させ、優しく触れるのさえ躊躇させるほどだ。そんな感情として受け取るものこそ、花を花として咲かせる見えない存在様相であろう。一輪のその花でさえ、誰に見止められるとも知らぬ、その花を咲かせることの理想を健気に全うしている。その姿を前にして自分は恥かしく思う。今の在り様に満足し、高みを目指す意志に欠ける。その深い深い赤色に込められているほどの深い心情を、あい対する事柄に込めているだろうか。あらゆる知識と知恵を手に入れたように奢っていても、この目の前のバラの花を咲かせるほどの知識と知恵にさえ、脱帽しひれ伏さざるを得ない。赤いバラは人間理想に向かって生きようとし、低い次元にある堕落本性を捨て、本然の人間本性を取り戻したいという衝動を与える。堕落本性が浸み込んだ血液を浄化し、祝福を通して戴く真の父母からの血統に繋がる、溢れる心情のストリームとしての血の在り様の象徴が、天一国国花としての薔薇だろうか。
2009年2月4日水曜日
今日の想い 52
恩赦を受けたからそれまでの犯した罪や負債がすべて帳消しになるだろう、許されるだろう。であれば、それ以降の罪行為、アダムエバ問題や公金問題の清算だけを考えればいい。そんな言葉が飛び出てきてビックリした。どこでどう間違えたらそう言う発想になるのだろう。恩赦のその場に居たというだけで、さも借金を帳消しにしてもらうようにそれまでの罪を白紙にしてもらえると認識できる感覚がわからない。たとえビジネスライクな取引感覚であったとしても、以後絶対いたしませんと、悔い改めと決意が担保されてこそ恩赦を受けたと言えるはずだ。ましてビジネスでも政治的配慮でもなく、御父母様の我々子女に対する想いが根底にあり、御父母様御自身が我々の犯した罪を身代わりとなって痛みを負う事で、私が受けることが出来る恩赦であろう。真の親としての想いも心情も土足で踏み散らしながら奪っていく恩赦であるなら、恩赦を受けることの罪を更に重ねている。御父母様に対するその想いや悔い改めなしに受けるべきものでは絶対にない。御父母様に対する心情蹂躙とも言えると思う。しかしそんな話を聞きながら、我々が何と御父母様と心情的に遠いかを改めて突きつけられた思いがした。与えんとして差し出す手を逆に叩かれ切られてしまうように、御父母様がどれほど孤独な立場であるかを思った。人の振り見てではないけれど、自分も声高に兄弟をああだこうだと評論できる立場にはないだろう。その兄弟を可愛そうに思いこそすれ、自分の罪でもあると認識して祈ってあげ取り成してあげるべきだ。更なる認識として自分の罪はもっと大きいはずだ。自分がしっかり給与を頂く前に他の従業員こそ先に受け取って欲しいと思え、自分と家族が天国に入る前に他の兄弟や家族が先に天国に入って欲しいと思える自分になりたい。御父母様が栄光を受けられる事を誰よりも誰よりも喜び、借金もし、なけなしの全財産をはたき切って御父母様のお祝いをしたいと思える衝動を持ちたい。
2009年2月2日月曜日
今日の想い 51
幾度の人生を渡り、幾度の霊界生活を繰り返して今生の生を生きているのだろう。漂い続け流され続けながら、魂の遍歴を幾重にも幾重にも重ねて今に至る。彷徨った果てに大洋に浮かぶ唯一つの孤島に足を着けた様に、果てしの無い砂漠の真ん中で緑輝くオアシスに辿り着いた様に、私は真の父母に出会った。大宇宙の全ての星から当たり星を見つけるように、魂の故郷に出くわしたこの出会いこそ、奇跡と言わずに何を奇跡と言う事ができるだろうか。自分から捜し求めてきた過去があって今の出会いがあるのではなく、悩みもがき途方に暮れた魂を幾星霜捜し求めて来られた神様がおられればこそ、真の父母との出会いがある。目の前を素通りしていく魂も、隣で談笑している魂も、肉体をまとったあらゆる魂という魂が、行く先も知れずひたすら目に映るものだけを掴もうと生きている。この地上の何十億という魂が、彷徨っている意味すら知らず彷徨っている。太陽光を受けながら物質的光としてのみ身体に取り込み、霊の光としての太陽存在を魂に取り込むことはなかった。自我に霊の光が届き自我の存在がやっと認められる。照らされて始めて、そのことに気付き始める。しかしながら殆どの者は気付いていない。自我の存在に気付かない者に、真の父母に出会うことの奇跡的な尊い意味はわからない。どれ程叫ぼうが、両の手で力強く揺さぶろうが、目覚める事はない。自らの内面に目を向ければ空しい空間を認識するのみで、それを自分であるとは認めたくない。魂の根源を把握しようとすれば自分自身をも否定する不安と恐怖に駆られる。この不安と恐怖は生きることをも否定する。だから敢えて魂の深層まで下って行こうとはしない。自我を探す道はこの不安と恐怖を超えたところにある。堕落人間は生きる糧を実はこの不安と恐怖を纏う存在から受け、その正体はサタンに他ならない。自我を備えてこそサタンの正体が見えてくる。自分という存在にどう関わって来たかが見えてくる。生きる糧として神様と真の父母からくる真の愛こそ本来の生きる糧であることがわかる。真の父母から来る一つ一つの言で生きる存在であることがわかる。そして堕落人間は本然の人間に生まれ変わる。
2009年2月1日日曜日
今日の想い 50
自分の中で囁くものがいた。死やまだ見ぬものへの恐怖を手玉に取りながら、自分に囁き続けるものがいた。厠までの暗い廊下を何歩で歩けと命令し、畳の隙間に足を置くなと命令し、寝床の方角を指定し、あらゆる指図を背後から言い付ける。化け物が来る妖怪が来ると知りたくも無い事を教え、軒下に置かれた灯油缶に得体の知れぬものがいることを告げたりする。自分の頭に浮かぶ脅迫的全ての事柄は別の何かの存在が語っている事で、自分自身の妄想だとは信じれない。自分の肉体でありながら自分とは別物が支配しようとする。別物が自分を追い払おうとしこの小さい肉体に住まおうとする。自分は追いやられ苛まされ不安と恐怖の中に埋没する。終りのない溺れ状態で霊の身体をくねらせ仰け反る。そんな地獄がどれ程続いただろう。気を許せば今でも足を引き摺り下ろそうとする存在が背後に待ち受けている。僅かの条件でも奪ってやろうとへばりつき待ち構えている。どれほど解怨しようともその存在は負債を覚える毎に存在を誇示する。その存在故にみ旨に向き合えたことも事実であるが執拗に付き纏われ辟易する。同じ基準であればこそ相対するその存在は、鏡に映された自分でもある。この存在が背負わそうとする不安と恐怖を取り払わせる為には、自分自身をみ旨に邁進させる以外の取引条件はない。白状するなら本心の喜びとしてみ旨に関わってきたのでなく、恐れと不安に追いやられてみ旨に関わってきた。自我が失われ主人不在の身体であったものがみ旨に関わると言うことは、それを意味する。しかし自我を見出し取り戻す事が今は為せるのだ。勝利された真の父母に完全帰依することで自我を取り戻せる。取り戻した分、その存在は影を薄める。
今日の想い 49
すました顔をして平穏な日々を送っているようで、その内面にはありとあらゆる感情が沸々と湧き上がり、様々なる想いや思考が口うるさく遣り合っている。社会人としての在り様が枠としてあり、その枠に辛うじて自分をはめ込んではいるものの、いつ爆発するとも知れない火薬庫を内面に抱えているようなもので、それが霊視出来るなら目を逸らさざるを得ないだろうし、自分の内面様相が表象として現れればあまりに汚らしく醜いために存在する事すら嫌になるだろう。地獄を見たければ自分の内面を見ればそれが地獄なのだ。熱存在としての人間ではあるが、太陽的熱に血筋を見る愛の熱は深層に沈み込み、憎しみや欲や恨みや蔑み、あらゆる負の感情の持つ太陽熱の対極にある熱様相を強く強く帯びている。サタンに根を置き悪魔に類するこの熱様相は人間存在を獣以下に貶める。神様を仰ぎ見たいという熱情を含む自我の存在を見出すことが出来ずに、負の熱を帯びたサタンに繋がる自分存在を本質だと思い込んで喜んだり悲しんだりしている。知る事ができず見ることもできないし探そうともしない本質の自我を、どうして認識することが出来るのか。それ故に自我の故郷を目に見える形で現されたのがキリストであり、そして真の父母である。自分に巣食い野放しにしている唯物的論理でキリストを測り、真の父母を何者かと判断することがどうして出来るのだろう。自分という失った自我と引き千切られた魂を見るのであれば、どのようにでも救いを求めるだろう。私が救いの責任を持つ真の父母だと、何処の誰が口にできるだろう。そう宣言することが天宙を翻して余りある真の父母の権威でなくして何だというのか。皮膚に覆われた内面が白日の下に曝される日が来る。自分という存在を、全うな人間と思い込まされていた自分という存在の惨たらしさを、無残にも知る時が来る。人類が泣き喚いて救いを請い真の父母の下に群がる時が必ず来る。真の父母を求めて人類は魂の大移動を始める。
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