2009年2月10日火曜日

今日の想い 55

抑えきれない感情や湧き上がる衝動から自然と祈りの姿勢に入る。それこそが祈りと呼ばれるものだろう。内面に熱を帯び、祈らざるを得ないと思えればこそ祈るのであって、周りから強要されて、或いは条件的に膝を折っても祈りとは程遠い。日々の生活の中で何が自分を動かし、何を求めて何を中心としながら時の刻みに自分を組み込んでいるのか。昼に何を食べようか、何をしようか何処に行こうか、日常的な事柄のみが関心事であれば祈りもその程度に留まる。日頃の生活意識からかけ離れた祈りをしようとしても、生活の意識の方向と祈りへの意識の方向が異なるなら、自分という存在はバラバラになる。一心一体一念の在り様という概念が捉えられずに、矛盾した今の在り様から抜け出せないでいる。御父母様を真に受け入れ帰依した者は、見える景色も聞こえる音色も違ってくる。同じ地上界に存在はしていても人それぞれが違う世界に生きているし、地上界に生きながら繰り広げられる出来事も経験する事柄も全く違う。しかしながら、何十億という人間の中で、物事や出来事の本当の意味を知って生きている者は少ない。受け取る外的刺激をただ表面的に受け取ったとしても、それは物事や出来事の影の部分に過ぎない。外的表面を突き破って、その中に入り込まない限り本質である正体は現れない。一日という時を刻みながら影の部分のみをなぞらえながら、それを今日を生きたことだと言うなら、人間の意識を唯物的な事のみに釘付けしたサタンの思うままに生きている。御父母様が自分の中で生きて中心的に働かれ、み言が魂の神経活動として思考、感情、意志を左右し、それでこそこの肉体は愛の細胞として作り変えられていく。その人間理想のあるべき姿が見えてくるなら、祈りこそ理想実現の道具としてあらゆる活動(それが日常的些細な事柄であっても、或いは内的活動に於いても)に御父母様から流れる熱い想いが届けられ、御父母様が見ておられる、同じ色彩豊かな景色が広がる世界に住むことができる。

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