2009年2月9日月曜日
今日の想い 54
子として授かったという意味は、天から預かり私という親の元に教育を受けさせることを任せたと言う事だろう。預かった魂に対して、この世的親という感覚を超えて、真の父母の息子娘として教育すべきだった。しかし自分にそれだけの自覚は無かった。この世の親と同じように、可愛く思い愛おしく思い、この子の為ならという思いは人一倍であったとしても、この世の親としての扱いを超えることは無かった。神様の願い、真の父母様の願いを動機としてそのように接していれば、違った在り様になったろう。しかしそこまでの認識を持つに至らなかった。今ですらそのような認識には至っていない。御父母様の心情圏に立つという意味の、本当のところを掴み得ず、ただみ言を受け入れて欲しい、教会に行って欲しい、祝福を受けて欲しい、子にすれば何々して欲しいという親の望み以上の意味を見出せない。親とすればそれが子を想うことであり与える事だという感覚だとしても、子は親の欲望としか取らない。自分に向かう言葉を愛情として与えられているという感覚なくして、親に対して感謝の想いは湧いては来ないだろう。無条件に与えられている、親としての犠牲を払って与えられていると思える度合いに応じて、感謝の想いの度合いも大きくなるはずだ。祝福を受けた二世達が喝采を浴びる。涙しながら彼らが証する。受けた喜びが二人から眩しく放たれる。彼らの喜びを、親としての喜びを、共に喜ぼうとすればするほど寂しいものが胸を覆う。光の中に組み込まれた魂と未だに彷徨っているのにそれすら認識できない魂、一方を他の親が受け取り一方を自分が受け取る。その違いを詮索し自分を責めようとも、そうすれば親としての自分をも彷徨う魂となり、益々光からかけ離れる存在になるだろう。責めようとする自分の中に、この世的親としての執着心が何処かにあるはずだ。自分のその部分をえぐり出して捨てる、そこからが子に対して本当に向き合う事になるのだろう。
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