2009年2月4日水曜日

今日の想い 52

恩赦を受けたからそれまでの犯した罪や負債がすべて帳消しになるだろう、許されるだろう。であれば、それ以降の罪行為、アダムエバ問題や公金問題の清算だけを考えればいい。そんな言葉が飛び出てきてビックリした。どこでどう間違えたらそう言う発想になるのだろう。恩赦のその場に居たというだけで、さも借金を帳消しにしてもらうようにそれまでの罪を白紙にしてもらえると認識できる感覚がわからない。たとえビジネスライクな取引感覚であったとしても、以後絶対いたしませんと、悔い改めと決意が担保されてこそ恩赦を受けたと言えるはずだ。ましてビジネスでも政治的配慮でもなく、御父母様の我々子女に対する想いが根底にあり、御父母様御自身が我々の犯した罪を身代わりとなって痛みを負う事で、私が受けることが出来る恩赦であろう。真の親としての想いも心情も土足で踏み散らしながら奪っていく恩赦であるなら、恩赦を受けることの罪を更に重ねている。御父母様に対するその想いや悔い改めなしに受けるべきものでは絶対にない。御父母様に対する心情蹂躙とも言えると思う。しかしそんな話を聞きながら、我々が何と御父母様と心情的に遠いかを改めて突きつけられた思いがした。与えんとして差し出す手を逆に叩かれ切られてしまうように、御父母様がどれほど孤独な立場であるかを思った。人の振り見てではないけれど、自分も声高に兄弟をああだこうだと評論できる立場にはないだろう。その兄弟を可愛そうに思いこそすれ、自分の罪でもあると認識して祈ってあげ取り成してあげるべきだ。更なる認識として自分の罪はもっと大きいはずだ。自分がしっかり給与を頂く前に他の従業員こそ先に受け取って欲しいと思え、自分と家族が天国に入る前に他の兄弟や家族が先に天国に入って欲しいと思える自分になりたい。御父母様が栄光を受けられる事を誰よりも誰よりも喜び、借金もし、なけなしの全財産をはたき切って御父母様のお祝いをしたいと思える衝動を持ちたい。

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