2009年2月25日水曜日

思考について考える

毎日がただただ過ぎて行くと感じるようであるなら、本質的な地上生を送ってはいない。明らかに内的霊的実りの内容が、自分の中に備わっていくのを実感として手応えを覚える、そんな歩みとならねばならない。その為に主体的意識的、更に能動的な生を送る必要があり、それなりの修練が必要になる。修練とは魂の修練であり、それは主に魂の活動である思考と感情そして意志の修練だ。思考活動としては、日頃いろいろ思う事柄というのは能動的思考ではなく一方的に思わされているだけのことで、それは思考とは言わない。ひとつの事柄に対して感情や思い込みを捨て、それが意味する隠されている本質を問い続ける事を、思考すると言う。いろんな苦労や困難に出会うと、それに対する嫌気ゆえにどうして自分に降りかかって来るのかと問い始めるが、そう言った感情からの問いは深い思考には至らない。ひとしきり悩みながらその感情を超えてこそ、事柄の本質への思考を始める事ができる。み言を鵜呑みにして走ってきた兄弟が、そのままである事を神様は願われない。鵜呑みは所詮借り物でしかない。借り物の信仰であり、借り物の侍る態度なのだ。み言を訓読しながら、その本質に出会わないとするならどうして生命のみ言、愛のみ言と悟ることができ、自分をみ言で創り返る事が出来るだろうか。み言を理論理屈でこね回せと言っているのではない。み言が自分を新しく創り返る事が出来ると言う確信の境地を問い続けなければならない。み言の本質に出会おうとするなら、み言の中で思考を試み、み言の中で感情を感じ取り、み言の中で熱い衝動を覚える必要がある。み言を外から眺め文章を追っても、み言の中に入れない歯がゆさや情けなささえも覚える事はない。目を通した安心感、訓読した満足感、それはサタン的なものに組み入れられる事柄のひとつである。

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