2009年2月2日月曜日

今日の想い 51

幾度の人生を渡り、幾度の霊界生活を繰り返して今生の生を生きているのだろう。漂い続け流され続けながら、魂の遍歴を幾重にも幾重にも重ねて今に至る。彷徨った果てに大洋に浮かぶ唯一つの孤島に足を着けた様に、果てしの無い砂漠の真ん中で緑輝くオアシスに辿り着いた様に、私は真の父母に出会った。大宇宙の全ての星から当たり星を見つけるように、魂の故郷に出くわしたこの出会いこそ、奇跡と言わずに何を奇跡と言う事ができるだろうか。自分から捜し求めてきた過去があって今の出会いがあるのではなく、悩みもがき途方に暮れた魂を幾星霜捜し求めて来られた神様がおられればこそ、真の父母との出会いがある。目の前を素通りしていく魂も、隣で談笑している魂も、肉体をまとったあらゆる魂という魂が、行く先も知れずひたすら目に映るものだけを掴もうと生きている。この地上の何十億という魂が、彷徨っている意味すら知らず彷徨っている。太陽光を受けながら物質的光としてのみ身体に取り込み、霊の光としての太陽存在を魂に取り込むことはなかった。自我に霊の光が届き自我の存在がやっと認められる。照らされて始めて、そのことに気付き始める。しかしながら殆どの者は気付いていない。自我の存在に気付かない者に、真の父母に出会うことの奇跡的な尊い意味はわからない。どれ程叫ぼうが、両の手で力強く揺さぶろうが、目覚める事はない。自らの内面に目を向ければ空しい空間を認識するのみで、それを自分であるとは認めたくない。魂の根源を把握しようとすれば自分自身をも否定する不安と恐怖に駆られる。この不安と恐怖は生きることをも否定する。だから敢えて魂の深層まで下って行こうとはしない。自我を探す道はこの不安と恐怖を超えたところにある。堕落人間は生きる糧を実はこの不安と恐怖を纏う存在から受け、その正体はサタンに他ならない。自我を備えてこそサタンの正体が見えてくる。自分という存在にどう関わって来たかが見えてくる。生きる糧として神様と真の父母からくる真の愛こそ本来の生きる糧であることがわかる。真の父母から来る一つ一つの言で生きる存在であることがわかる。そして堕落人間は本然の人間に生まれ変わる。

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