2009年2月26日木曜日

妻のかたわらで

病はひとりで背負うものと言う取り決めは、どういう理由からそうなったのだろう。妻が横で苦しそうにしているのを見ながら、夫として何もしてあげることが出来ない。自分の無力さをとことん思い知らされる儘に、消化しきれない思いや感情が握りこぶしを硬くし奥歯をかみ締めさせる。いっそこの身体を捨てて、横たわっている妻の身体に入って行き、苦しめる元凶の首を締め付けてやりたい。小刻みに震えながら妻の身体の一点を注視している自分がいる。忘我の自分に気付くと、いそいで視点を逸らしてその体制を振りほどき、大きく一呼吸した。気を取り直して座り直し、身体をさすってやると、決して楽になる訳でもないのに、ありがとうと消え入りそうな声で言う。そんな言葉など今の今、聞きたくは無いだろう。居た堪れなくて逃げ出したくても、この感情の逃げ場は何処にも無い。彼女への責め苦を、変わって被れるものならどれ程有難いことか。痩せ細った指が意味の無い動きをする。薄い胸板が不自然な凹凸を繰り返す。むくんだ顔から読み取れるものは無い。夫婦は一つだと言いながら、一つになれない不条理が妻との間に厳然とある。彼女は肉体の苦痛に耐えられると踏んで、この責め苦を与えることが許されているのだろうか。私は魂の責め苦に耐えられると思われて、この感情を味わうのだろうか。明らかに願わぬものを受け取りながら、そのことを感謝できる時が来ると信じる、そこに至るしか救いはないのだろうか。責め苦を味わいながらも、感謝の念を供えることができるのかと問いながら、ヨブの信仰と同じ路程の中にいる二人であると気付き始めた。その意味に於いて、二人はひとつになることが出来るのかも知れない。肉体の痛みであれ、心の痛みであれ、甘受し続けるという試練の路程に、同時的に二人は没頭させられている。

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