2009年2月24日火曜日
病に想う
強烈な頭痛と吐き気に襲われる。自分だけは罹るまいと気合を入れていたつもりだったが、心配事が重なりダウンしてしまった。そうは言っても妻を入院させた後帰ってこないと仕事は幾らでも溜まる。危ない思いをしながら何とか帰ってきたものの、アパートに着くなり潰れてしまった。何度罹ってもアメリカのフルーは強烈で、身体がへたり込んで言う事を聞かない。誰も居ないアパートの部屋の中で、一人おまるを抱えてうな垂れている姿は情けない。せめて条件だけはちゃんと済ませたいと思い、気合を入れ直して御写真の前に立った。完遂できるか心配だったが、いざ始めると結構身体は言う事を聞いてくれた。ぐっすり眠れればすっきりするのだろうけれど、それができない。横になっても訳のわからない思考が勝手に活動する。健康状態だと、眠りに落ちる時魂は気持ちよく身体から離れ霊界に赴く。睡眠は身体を休めること以上に、地上界で活動する為の霊的要素を受け取る為にある。熱があったり吐き気がしたり体調が良くないと、魂は身体から抜け切れない。それが理由で浅い眠りの中で訳のわからない問いを繰り返してみたり、言いようの無い感情に包まれてみたり、身体は臥せっているのに行動意志を働かそうとする。病気はある意味、身体という一つの存在の反乱だろう。身体を身体として築き維持している存在がある。人間としてこの身体の中に入る事を許されているだけで、自らが築き上げ維持している身体ではない。自分の意志を伴わず消化活動、循環活動、様々な生命活動を為している。その活動たらしめる為の存在がある。血統的遺伝的なものであれ自らの不摂生であれ、病気は人間と言う霊的存在の、身体に対する霊的内的取り組みの不正にある。あくまで結果であって、今現在の取り組み方に問題があると言う訳ではない。急な病に伏せながら、この身体あっての今生の経験であり喜びの体験であり神様御父母様に侍ることができるのだと、感謝の想いを供えた。
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