2009年2月13日金曜日
今日の想い 56
皆それぞれに抱えている問題がある。悩み苦悶する立場であれば問題を問題と認識するけれど、これを解決した立場から見れば、問題ではなく課題であったと認識できる。問題を解決しようと思うとき、問題を問題として捉えている限りは解決しない。今抱えている問題を解決したのち、次なる課題が何だろうかと問わなければならない。即ち問題を追いかけるイメージに固定されている限りは、問題は常に手の届かぬ自分の前方に位置している。そして問題を飛び越えて次なる課題に照準を当てた時、即ち自分を未来に位置させて後ろを振り向くイメージとして捉える時、問題が降りかかってきた意味と言う問題の正体を見ることができる。その時点で次なる課題の為の一里塚であったと捉える事ができ、解決の道筋は見通せる。問題が解決できるとは、要するに自分を高みに置くことが出来た時のことを言う。目標を高く掲げる事の重要性を指摘することはそれに由来するが、目標を高い位置に置く意味は、降りかかる問題を達成する為のステップアップの課題と捉える事ができることにある。同じ事柄に出会うとき、それをやっかいな問題と認識するか目標達成の為の課題と認識するかは天と地ほどの開きがある。私達は人間としての目標を明確に与えられている。人間理想としての御父様の在り様こそ私達の目標に違いない。自分が魂の存在として、知の働き情の働き意志の働きの明確な理想目標が、御父様として私の前に立っている。それこそ自分理想の姿なのだ。御父様を見ることで、人間理想に立つ自分の未来を見ている。無数の悩み苦悶する事柄に出くわしながら、その一つ一つが御父様に見る人間理想としての目標達成の為の脱皮摂理であると認識できることが、どれほど感謝であり祝福であるか。御父母様という光を追いながら、堕落本性という皮を、試練という石垣のごつごつした岩の隙間に身を擦り付け身を削る事で、一枚一枚剥ぎ取っていく。私達はいつも問わなければならない。御父様だったらどうされるだろう、と言う問いかけを、、、。
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