2009年2月16日月曜日

今日の想い 57

今生に於ける自分の使命は何だろうか。使命というと何か特別な、選べれた人間に与えられた事のように捉える。勿論一人一人特別で選ばれている存在であるし、誰一人意味無くこの世に存在してはいないと自分は信じているが、使命と言うより役割と言ったほうが親近感を覚えるのかもしれない。社会生活をする上に於いて、いろんな役割を担っている。家庭に於いては親であったり、仕事場に於いても自分に与えられた役割があるはずだ。教会という兄弟間に於いての自分の役割もあるであろうし、日本人なら日本人としての役割もあるはずだ。しかし、そう言った表面的役割の背後に本質的な役割を担っている。この世での様々な役割は本質的な役割、使命、今生に生きている本質的意味を担うことの道具でしかない。この世での様々な環境、状況を道具としながら、魂の存在として何を復帰する為に生を得たのか、と問わなければならない。この世に於いて担っているあらゆる役割に共通する、或る復帰すべき内的霊的事柄がある。それが故にこの世に押し出されたのであり、今生を生きようと意志したのである。人生は苦難と困難に満ち満ちている。人生が楽しくて楽しくて仕方が無いと言う人が居るとすれば、間違ってこの世に出てしまった存在なのだと思う。実はこの苦難と困難にこそ、自分が生きる意味が隠れている。目前に現れる苦難と困難、実は偶然に遭遇した訳ではなく、この場この時に会うべくして会った霊存在の表れに他ならない。苦難困難という重苦しい表象を取ってはいるが、ヤコブに天使が挑んで来た様に、霊存在の試練に他ならない。我々は様々な試練を乗り越えながら、即ち様々な霊的存在を打ち負かしながら、魂としてのステージ段階を一段一段復帰している。試練を超えることで受け取る、かつて無い新たな力や心情は、霊的存在が屈服した事を神に報告されると同時に受け取る、神霊的財宝としての恵みであり祝福である。そこまで見通すことは堕落の身に於いては至難の業であるが、そう信じて試練である苦難と困難から顔を逸らすべきではない。統一食口として御父様に訓練された事とは、苦労に対する耐性に他ならない。全く何もわかってはいないが、苦労を当然のこととして甘受する姿勢だけは徹底して訓練されてきた。どう見ても馬鹿にしか見えない者が、サタンに打ち勝つ術を御父様から訓練されて取得している。

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