2009年2月19日木曜日

今日の想い 59

今、本物かどうかが問われている。一人一人の人間存在として善なる要素、愛の要素を受け取りながら、人間理想を実らす工程に在るのか。それとも悪の要素、自己中心的我欲の要素に執着しようとするのか。もはや実った果実なのか腐った実なのか、羊なのか山羊なのかを分ける最終段階に突入している。経済の先行きを不安視して今手元にあるものだけでも手放すまいと囲い込んでいる。世帯にしても会社にしても国にしてもそうなっている。抱え込んだまま硬直化してしまった手をどかすことは、余程の事が無い限り難しいだろう。金や物に対してもそうであるけれど、魂に染み付いている堕落性による感情、更に安楽な事情圏や環境圏までも抱え込んで手放そうとはしない。誰の事でもない自分の事なのであって、信仰年数が長ければ長いほど、自分の落ち着き所を心得ている。要するに自分がコントロールできる範囲内で貢献すべきだと個人的裁量が働く。そうなれば冒険する事はないだろう。後先考えず、むやみやたらに行動すれば良いと言うものではないが、要領ばかりが良くても役には立たない。結局のところ、魂の奥の奥の自分の根源に、御父母様に繋がったものがあるかどうかだろう。感情の動き等の魂の活動一つ一つは、信仰者とは言えないものを含んでいたとしても、天の願い、御父母様の願いを受け入れようとして、苦しみのた打ち回りながらでも最終的に根源にある御父母様への帰依を捨てなければ、御父母様が責任を持って下さるはずだ。2013年までの四年間、天の願いを受ける自分となる為には、この世というぬるま湯から精神的極寒に飛び出す為の、七転八倒の魂の地獄絵巻が繰り広げられる。多くの兄弟が、死んだほうがまだ楽だと思うようになるかも知れない。母の国として世界の国を産み直す解産摂理であると同時に、四年と言う産道を通過しながら、自分自身をも新しく産み直す摂理でもあるだろう。希望の一点は、御父母様が摂理の終着点を示して下さった訳で、ある意味責任分担を完遂した終着点で、この地上を去っても良しと捉える事も出来る。その日その時に死ぬのだと思って、それなら今をどう生きるかだ。

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