2009年4月28日火曜日
宇宙存在
目に映るもの、我々の前に起こる事柄、更に社会的な事や経済的な事であれ何であれ、我々を取り巻く環境全ては背後に霊的内的な原因がありその結果としての現れに過ぎない。目の前に起こる事柄に対して一喜一憂させられるのが人間存在であるけれど、自分が原因となって現れた結果としての態度を、起こりえた事柄に対して示さなければならない。自分を取り巻く環境圏に不平不満を示すことは環境圏を結果として認識してはいない。不当な仕打ちを受けていると言う被害者意識は、置かれている環境に対して自分に起因する原因を見ようとする意志を排除している。他の誰かや何物かに責任を転嫁していると言う事だ。結果の世界に我々は生きているけれど、同時に新たな原因を創り出してもいる。今を生きているという意味は、過去の内的霊的在り様の結果を受け入れ、未来の環境の種を内的霊的在り様を通して撒いていると言える。その認識をどの程度持つ事ができるかが、自分の人生を左右する。要するに自分が主体となり自分が主管する生を生きることが出来るし、自我を戴いた自分という存在は神様からそのように独立した自由な自我存在として創造されている。であればこそ自分としての夢を持ち理想を備え、その環境づくりを内的霊的なツールを用いながら創造している。神様が大宇宙を創造され、また今尚創造過程にあるように、自我を備えた人間それぞれが自分という宇宙を創造している。神様から戴いた人間としての魂の活動を通しながら、神様から届く内的霊的エネルギーを活力としながら、或いは隣り合った宇宙である隣人との内的霊的授受作用を為しながら、自分や家庭という太陽系宇宙を創造し社会としての銀河系宇宙を創造し、神様を大局自我として大宇宙創造に加担している。夢を持ち理想を目指す人間それぞれの意志こそ宇宙進化に寄与する。み言をして人間理想が我々の前に示され、自分の中でその理想願望が活き活きと息づき、理想実体として真の父母を自分の将来像として仰ぎ見ながらその高みを目指す。その理想に繋がる一つ一つの夢、その実現への衝動こそ生きていることの実感だろう。
2009年4月23日木曜日
今日の想い 75
昼過ぎまでは青空が広がっていたのに、夕方気付いた時は青黒く染めたような雲で空全体が被われていた。暗くなった空に光が走る。けたたましく雷鳴が轟く。強風が地を這い大粒の雨が叩きつける。しばらく降り続くのかと思っていたがほんの一分足らずの出来事だった。しかしその後の情景に目を見張った。雷雨が通り過ぎた後も雲は依然と空を被い、空も地上も陰りを濃くしていた。既に日が沈んでそのまま闇の世界に続くのかと思った。メインストリートは光の帯が流れているし、通り沿いの店の照明は眩しくさえ映る。コーヒーショップから見える通りを行き交う人々の顔形も見分けがつかない。テーブルの上の開かれた本に目をやろうとしたその時、舞台照明のような光が射した。店内が一瞬にして茜色に染まる。誰もが何事かと顔を上げる。見渡す地上のもの全てが茜色に染められている。建物の壁面も茜色、通りに流れる車も茜色、道行く人々も茜色、並木も茜色のオーラがかかっているように茜色に縁取られ、全ての万物が茜色を呈している。コーヒーショップは東向きに全面ガラスが張られている為西日の様子はわからないが、落陽の瞬間に西空が晴れたせいで天に覆われた雲と地上との間に真横から落日が差し込まれたからだろう。その為、本来雲の上から光は届けられるものを横から或いは乱反射して下から落日の光が届けられ、暗い雲がワイン色に染められた。見渡す限りの地上の存在物がワイン色の雲、即ち気化されたワインに酔い、そして茜色に酔いが回った。祝福の場で聖酒を戴くように、地上の万物が祝福に預かり聖酒を戴いた様相を、この情景の中に見た思いがした。
今日の想い 74
霊界が働き、天運が我々と共にある。そういう言い方を責任者もするし、我々も何の疑いも無くその言葉を受け取る。しかし責任者も我々もその言葉の本当の意味する事柄を理解しているとは言えない。奇跡的な出来事を期待していないだろうか。どこからかお金が降って湧いてくるような、現実的とは言えない感覚を未だに持っていないだろうか。天が共にあると言いながら状況を楽観視して手を付ける事と、無責任との違いは何だろうか。霊界が働くからと言って、良き心を持てば知らない内に財物や食べ物が霊界の配慮で届けられる等と言う傘地蔵信仰を信じている兄弟はいないだろう。この地上で生きる為には肉体を使いそれなりのプロセスを踏まない限り糧を得る事は出来ない。そういった理解はありながら、願われる金額が自分が把握できる額を超えたり要求される事柄が自分の度量を超えると、自分を超える力が働いて出来るのだと責任者も大風呂敷を広げ、自分も出来るような気がしてきたりする。それは信仰ではなく妄信に過ぎない。それが見えず地に足が着かない状態で今まで歩んできた。いい加減目が覚めてもいい頃ではないだろうか。それは霊界認識の誤りだ。盲信という目を曇らす霊に主管されていると言っても言い過ぎではないと思う。地上界に於いて外界に働きかけるのはあくまで肉体を持った人間であり、肉体を主管し動かす内面の在り様次第で外界に働きかける知恵も力も備わってくる。知恵と力が備わらない限りどれほど他力を願おうとも外界に働きかけることは出来ない。霊界は自分の内面に働く。真の父母の在り様が自我に根付く。神霊存在として自我に繋がる意志や叡智が魂を大きくする。魂の活動としての意志や知性で外界に働きかける。働きかけ投入するに応じて実りである結果がもたらされる。霊界は自分を跳び越して外界に作用することは有り得ない。霊界はあくまで自分に働く。内面に届けられるものを通して成長しているかどうか、昨日より今日、去年より今年と言う風に成長が認識できないのであれば、真の父母に繋がる運勢を拒絶している。自我としての在り様に神は働き霊界は働く。自分を超えて働くほどに自分という存在を無視されてはいない。
2009年4月21日火曜日
今日の想い 73
泥水を何度もかき回しながら土砂を少しずつ選別し、そう言う過程で砂金が手元に残っていく様に、堕落性という不純物を見分け分別し、自分の本性という神から来るものを選別する為に感情がかき回される必要がある。内面にある感情の海はいろんな表情を見せる。穏やかな凪ぎの時もあればシケの時もある。そぼ降る雨に冷たく打ち沈む時もあれば光が海面を踊り、明るく活気付く時もある。誰も荒れ狂うのを良しとはしないが、それでも沸き立ち湧き溢れる感情を表現することで人間模様は彩られていく。しかし感情に踊らされ、荒れ狂う馬のような魂の活動を主管できないとするなら、自分は自我存在としては確立されていないと言えるだろう。そうは言っても、出来るだけ内面の感情をかき乱されず平静でありたいと敢えてそういう状況を避けるなら、精神的存在として高みを目指しているとは言えない。自分の内面に揺さぶりをかけられてこそ、より高みにとどくことができると言う認識が、今の感情の在り様を甘受するという態度を取る事ができるし、それをばねとし或いはエネルギー材として内的に飛躍することができる。瑞々しい、そして活き活きとした魂の在り様にする為には、喜怒哀楽をしっかり内面で経験したいと意志する必要がある。喜怒哀楽をわざわざ表面に出そうとすれば魂の願いとは別なものになりかねないが、喜びを喜びとしてしっかり味わう、怒りも悲しみもそして楽しみも内面に於いてしっかり受け止め経験し味わう事が大切だ。意識してでもそのようにしている内に自然とそうなってくる。何の変哲も無く一日一日を過ごしていたのが、日々彩りを強くし様々な色合いとなり、本当に楽しく本当に悲しくなってくる。そのように感情豊かになってこそ他への想いや愛が芽生えてくる。為に生きないといけない、愛さないといけないと言う時点でそれは為に生きることでもなければ愛でもない。兄弟達の乾き切った魂が、真の愛に触発されて瑞々しく生気を得る事が出来るように。我々が神霊復活せずにどうして救いを伝えることができるだろうか。
2009年4月20日月曜日
浦島太郎 その弐
二階に自分の部屋があるからと手を引かれるまま上がっていくと、二つの部屋の一つに案内された。ベットに腰掛けると学校でしか見なかったような大きなステレオが目の前にあり、その横に勉強机が備えられていた。ロック好きの彼らしく壁にはその当時流行っていた海外グループの奇抜なポスターが色鮮やかに貼られている。早速練習を始めようと言うことで隣の部屋に案内される。隣は姉の部屋らしい。今まで嗅いだ事も無いいい香りが漂うその部屋は、ベットにしろ棚や箪笥にしろ至る所に白いレースがあしらわれ、見ていると何かしら高揚するものを覚え恥かしくなった。ひときわ大柄のレースに縁取られたアップライトピアノが白いレース模様の下で黒く光っている。彼は階下にいる姉に一声かけると、無造作に蓋を開き課題曲を弾き始めた。自分もそれに合わせて練習する風は装うけれど、意識はそこにはなかった。香りに酔い、床に敷かれた絨毯で足が浮き、目に入る可愛らしい小物や色とりどりの衣服に目が回る。始めて経験する視覚や嗅覚に興奮しているようだ。練習も儘ならないまま集中出来ずにいると、暫くして階下から呼ぶ声が聞こえる。食べてからにしようと言う事で階下に降り、ぎこちなく席に着きながら、ダイニングテーブル一杯に並べられたご馳走を薦められるまま口にした。今まで見たことも無いカタカナ料理に、落ち着いて味わいながら食べるという状況からは程遠く、何をどう食べているのかさえ意識に無かった。初めて会う自分に何のよそよそしさも無く優しく薦める彼の母親や、幸せ溢れる彼や色白の清楚な姉の表情に戸惑いながら、良くされればされる程に、幸せそうに見えれば見えるほどに、これまでの自分には一つも無い環境に彼と彼の家族があることに思いが行き、ある感情が湧いて来る。彼らに対する嫉妬であったのかも知れないが、自分とは明らかに違う世界に住んでいる彼らが遥か遠くの存在に思える。訳のわからない感情に戸惑いながらも食事に対する礼を述べた。一晩世話になり明くる日曜の朝、夜遅くに帰宅した彼の父親にも一言挨拶して彼の家を後にした。昨晩、窓に打ち付ける激しい雷雨を耳にしながら、寝入るとも無く横になって朝を迎えたが、今朝には雨は上がってはいたものの、強い霧に辺り一面覆われていた。日曜の朝早くとぼとぼと歩き、人気の無い駅のホームにあるベンチに腰掛け、深い霧の底に沈みながら、昨日の自分の体験事が何か夢物語か異次元での出来事のように思われる。子供の新しい生活と出発の為にナケナシの貯金をはたいて送り出してくれた田舎の両親に想いが至り、彼らとのあまりの境遇の違いに憤るよりも何よりも悲しく思えた。毎週末にビルの窓拭きバイトを重ねて、やっと手にしたギターを見つめながら、苦しい生活を強いている両親に想いが至らず、身分もわきまえずに華やかな世界に仲間入りを望んでいた自分が情けなくも思えた。弱い風がベンチの下から吹き上げる。霧が舞い上がり両手で抱えているギターから煙が出ているように見える。宮島行きの電車が向かいのホームに流れ込み厳島のお宮へ向かう乗車客が私を見ている。異次元の竜宮城から、目が醒めて帰ろうとしている自分は、彼らの目にどう映っただろうか。向かいの電車が走り去ると、自分を乗せる現実行きの電車が近付いてきた。
浦島太郎 その壱
田舎から出てきて市内の学校に通い始めた。田舎では暗い影の存在がいつも自分に負ぶさってきて、重苦しさと恐怖感に苛まされながら暮らしていた自分は、田舎を出ることでそういったものからの開放を得たような安堵感を覚えていた。本当は開放された訳でも何でもなく、周囲の華やかさに自分を埋めることで暗い存在への意識を逸らしただけの事だったのだが、それでも良かった。意識を逸らせる術を得た事が市内の学校に出たことの大きな収穫だった。町に出て一人暮らしを初め、前日は一睡も出来なかった登校の初日、距離感覚がわからず始業時間の一時間も前に教室に着いてしまい机の横に佇んで教室全体を眺めてみたり二階の窓からの景色に目をやったりしていた。程なく力強い足音が近付いて来る。教室の引き戸を響かせて足を踏み入れ、それまでの静寂を破ったのは自分の推測に反して女生徒だった。本人こそが最初の侵入者だとの思い込みがあったのか、私が視界の中に入ったことに一瞬の驚きは見せたが、物怖じしない笑顔を表情に表し溌剌とした声で挨拶しながら自分の机に足を進めた。肩までのストレートの髪をリズム良く揺らしながら、背筋を伸ばして空気を割り込む姿を見るとも無く追うと、自分の在り様との大きな違いを彼女に見た。彼女を見上げるような、そういった都会的な領域の中に自分が入っていくことで、希望を繋ぐ事ができるような気がした。しかし自分の居場所を求めていく過程で、如何ともしがたい、彼らそのものになる事は出来ない自分であることを認めていかざるを得ない、その事に気付き始める。皆に溶け込みたくて、明るく振舞おうと躍起になって演技する事に疲れを覚え始める頃、一人の友達の誘いを受けて彼の家に赴いた。選択の音楽授業で多くの女生徒の中の僅かな男子生徒として彼と私は在籍していたが、授業のひとつとして音楽発表を生徒それぞれがするようにと先生に言われ、誰にでも話しかける彼は私に声をかけ一緒に演奏しないかと持ち掛けた。演奏題目は決まり彼はピアノ担当、私がボーカルとギター担当でそれぞれに練習して最後に合わせようということで彼の家に来るよう声をかけられた。彼と約束したように、土曜の半ドンが終ると週末のアルバイトで買ったギターを抱えて彼と一緒に宮島線に乗る。駅から降りると閑静な住宅街が広がり、どれも同じような洒落た造りの家が間を置いて並んでいる。整備された住宅路を何度か折れながら暫く歩くとその一つに手招きされた。今思うと決して大きな家では無かったが、田舎のあばら家で育ち、市内に出てからは四畳半一間で下宿している身には、全てが煌びやかだった。自分の母親とは比べ物にならない若さと気品を備えた彼の母親と、大学に通い始めた姉だと紹介された都会的女性に迎えられ、ドキドキしながらその竜宮城へ誘われるままに入っていった。
2009年4月19日日曜日
ふたりのイエス
マタイによる福音書にはアブラハムから42代を経てイエスに至り、ルカによる福音書には神からアダム、セツと経ながら77代を経てイエスに至る。わざわざそれぞれの代の名を上げながら42代と77代を記述しているのには深い理由があり、マタイがアブラハムから記述した理由も、ルカが神から記述した理由もあるはずだ。更にアブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンに移されるまで14代、それからキリストまで14代と記された深い理由もある。またそれぞれの系図を辿っていくと決定的な違いを見出すことが出来る。マタイはダビデの次はウリヤの妻に産ませたソロモンとあるけれど、ルカに於いてはダビデの次にナタンとあり、それ以降の系図はそれぞれで違う。聞き伝えによる間違いでありさしてその意味を問うことなど無意味であるかのように思えるかも知れないが、この点を逃すべきではない。聖書である以上、一字一句に意味がある。神学上のいろんな解釈が我々の前に示されてはいるが、自分が納得できるかどうかが問われている。自分が理解したものしか内面に取り込む事はできないし、内面に取り込んだものが新たな判断となって新たな世界に光を照らし内面の知であり叡智となる。聖書に触れながら過去の中近東一帯の出来事を外的知識として得る事、それ自体に差ほど意味は無く、聖書の中に本質の自分を認識し自分を変革する何かがあるかどうかを問うことに意味がある。自分という存在の中に、代々の生き様を通しながらつながれて来たものがある。血の在り様に全てが刻印されて、血の在り様の見える実体として自分という存在がある。逃れようにも逃れられない自分の在り様は二つの流れから来ている。ひとつは外的な在り様から遺伝として繋がれたものであり今ひとつは内的霊的在り様から届けられる霊的自己の流れである。原理的にいうなら協助として示されるものだが兄弟が理解する以上の深い意味が協助の中にはある。この地上界で親や友達の助けを得る、その感覚の幾らか深いもの位にしか理解していないが、実は自分の内的霊的在り様に深く係り自分は協助する霊の生まれ変わりと言っても過言ではない。人間という存在が肉体と霊人体からなり二つの流れの実体であるように、イエスキリストというメシヤとしての地上実体を送り出す為に外的肉体的一つの流れに42代を通して血に刻印されてきたものと、今ひとつの内的霊的流れの中に77代を通して霊の血に刻印されてきたものがある。その二つの流れがイエスキリストという一つの実体になった。神が数理の神であり内外の全ての存在様相に数理が働いているように、7数を中心とした世代を繋げながら、サタン要素が完全に排除された神の理想実体としてのイエスキリストを我々は戴いたということだ。
故郷
過去をどこまでもどこまでも遡って、まだルーシェルの影響すら受けていない神様の熱い熱い天地創造人間創造への想いが躍動していた頃の記憶を取り出す事は出来ないのだろうか。自分という存在を内外両面からことごとく観察しながらどれ一つ神様が係る要素がないということは在り得ない。生まれながらにして堕落の身であり自分という全存在が堕落要素から出来ているとするなら、救いであるとか復帰だとかは全く無関係な存在であろう。堕落的要素が多くを占めるとしても、創造本性から来る要素をちゃんと見出してあげることが自分を愛することであり、自分を愛する事が他を愛する出発点なのだと思う。自分は存在する意味すらない、全くもって駄目な存在だといった誤った認識に立って、そこから創造的何かが生まれることは無い。信仰として自分を否定するとは自分の誤った認識を否定するのであって、自分という全存在を否定する事ではないはずだ。その意味で今までの歩み、特に日本での歩みに於いて誤解があったのではないかと思う。少なくとも自分はそのように扱われて来た認識がある。駄目だ駄目だととことん貶められて、だから奴隷として歩んで当然だと押し出されて創造的建設的な歩みになることはないだろう。堕落要素が血統的なものとして自分の中にあるように、どれほど奥深く隠れていたとしても創造理想の本性をも血の在り様に見出されるべきだ。本性要素は堕落以前へと自分の血統を遡る時見出されるであろうし、堕落の影響を受けていない当時の懐かしさを自分の感情の中に捜し求めることができる。記憶は今生のみに限定されてはいるが、自分の内面に何処までも何処までも下って行きながら捜し求めていくと父子の因縁に起因する欠片の一つ二つは辿り着けるはずだ。であればこそ故郷という言葉が御父様から出てくるのであって、故郷の場が自分の魂に取って全く関係ないのであれば故郷とは言えないだろう。懐かしさが込み上げてこそ故郷と言える。今の今、その感情や認識は無いにしても、御父様がその感情や認識を持っておられるように、我々もその認識を得る事がいつの日か出来ると思う。であればこそ御父様の故郷は私の故郷でもあるのだ。
2009年4月16日木曜日
自我としての宇宙
明かり一つ無い山間に佇み天を仰ぐ。漆黒に覆われた帳の先を見通そうとする時、言いようの無い感情が沸き起こる。その感情はあの闇の向こうに何があるのかひたすら尋ね続けようとする。自分の理性は、問いの答えは永遠であり無であることを言い聞かせようとするけれど、そうすればするほどその感情は膨らんでいく。膨らんで膨らんで自分の魂が抱えきれなくなり、吐き気を催す恐怖感に襲われながら意識をその感情から逸らすよう逃げ惑う。その感情から解き放たれる安らぎを手当たり次第に求めるけれど、求める事は漆黒のあの闇の向こうにまた目をやることになる。絶望感と孤独感で心は病み、気が触れる後一歩のところで彷徨い続けていた。しかし、自我の宇宙的大変革は盗人のように自分すら気付かぬ内にもたらされた。投影された大宇宙が外界に広がっているように、自我宇宙が内なる世界に広がっていることの認識をいつの間にか受け入れていた。大宇宙に対する認識を何を犠牲にしても持ちたいと言う、自分でもどうしようもない衝動は、実は自分という自我宇宙に対する認識を持ちたい、自分自身が何物なのかを知りたい衝動なのだ。感覚世界に身を沈めながら感覚で受け取るもので自分の宇宙を認識し刺激し、色彩溢れる活き活きとした在り様に創造されていく。内面に熱と光が届けられ、思考と感情と意志が発動する。過去には自分の中で問い続けてはいたけれど、何がそうさせていたかも知らずに問い続けさせられていた。喜怒哀楽は覚えるけれど、それが何になるのだろうと覚めた目が意識されると一瞬にして空しさに変わった。日常生活の動きにすら自分は介入してはいなかった。しかし今は内面に熱と光が溢れんばかりに届けられる。自分の新生的在り様がみ言に感化された思考、祈りに満たされた感情、突き動かされる衝動として内なる宇宙として働く。それが御父母様に出会えたことの証なのだ。
2009年4月14日火曜日
経済体制の終焉
資本主義は企業の利益は社員の労働が生んだものでなく資本が生んだものだという観念で、企業の純益の所有権は経営者を含む従業員にはなく株主にある。逆に利益の所有権を従業員即ち労働者にあるとするならそれは共産主義になる。勿論資本が無ければ企業を立ち上げる事はできないので先ず資本ありきとなるが、それがそのまま資本を投資した者が利益の所有者だと言う事はできない。価値論を詮議するなら資本そのものが利益を上げたと言うより、労働により利益を上げ労働にこそ価値があると言う方が分がある。昔はまとまった資本を集めようとすればそれなりの株主がそれなりのまとまった額を拠出した。今のパソコン時代のように小額で好きな時に好きなだけ気軽に投資するのと訳が違う。勿論今の株の売買を投資と言えるのかどうか疑わしいが、かつての投資には大きなリスクが伴った。企業として成功するかどうかが資本投資リターンと不可分の関係にあったが、今の投資は吊り上げて売り抜けると言うように企業として発展しているかどうかは二の次で利鞘を稼げる。資本の分化やリスク計算がパソコンと表計算ソフトで極限まで出来る今、資本主義は既に制度疲労で使えない。資本主義はその一時代の役目を既に終えている。殆どの銀行が不良資産で債務超過になっていても、破産させる事ができない政府は国民に知れ渡らないように簿外供給を銀行に出している。5兆ドル6兆ドルの資金供給を受けている時点で全ての銀行は実質上国有なのだ。今、アメリカの国の在り方は資本主義から社会主義になっている。誰が否定しようとも国がやっていることは国家保護であり国家保有に違いない。問題は銀行が国家保護の下にあるのに企業や世帯は保護の下に無い。投入されている資金は国民の税金であり国民からの借金であるのに、その金で銀行は救うが自分と自分の家庭と生業は救わないと言う時、誰が納得できるだろうか。アメリカは日本のように仕方が無いでしょうと言う言葉は通じない。必ず大爆発する。未だ露呈していない危機的国の在り様を見る時、近い将来のもがき苦しみが見て取れる。底に沈み沈殿されたものが積み重ねられていって、既に表面から見て取れる。過半数の国民がそれに気付くと一変に底を上に上を下にかき回す。そこで始めて神のものかサタンのものかの分別が始まる。かき回されない限り神の所有を取り出すことは出来ない。人類の審判の時を粛々と待っている。
今日の想い 七十二
脈々と受け継いできた血の在り様から逃れる事ができないように、今ある生活の足場としているものがどう変遷してきて何処から来たものであるかから逃れる事もできない。それと同じようにビジネスだ何だと薄っぺらな理論理屈を振りかざして弄んでも、それを立ち上げるために投入された精誠を無視して好きなように扱う事は許されないし出来る訳でもない。必要経費だ献金だ、或いは新規のビジネスだとお題目だけは立派に美辞麗句で着飾ってはいるけれど、そこにどれだけの覚悟が見えるか疑わしい。自分は恐ろしくて軽々しくあのビジネスはどうだこの商売はどうだ等と口にすることすらできない。もしそれで失敗するならその責任はどう取るのだろうか。競馬で大穴を当てたりラスベガスあたりで降って湧いた金ならどの様に使おうが勝手だが、我々のビジネスに投入された資本はそう言った類の金と訳が違う。少しでも日本で歩んだ経験のある者なら一円一円がどれ程重みがあるかを理解する事は当然の事だと思う。み言以外の一切の所有物を捧げ、寝るのも惜しみ万物復帰に明け暮れ、実績が低いとぼろ糞に言われ、殴られながらも信仰生命を繋いできた。信仰生命を繋ぐことができた者はまだ幸いで、多くの兄弟が追求に耐えかねて去っていった。離れた堕ちたと揶揄されながら、距離を置いた多くの兄弟は三行半を突きつけて出て行った訳ではない。自分の弱さを申し訳なく思いながらも去らざるを得なかった、その心情を思い遣ると居た堪れない。そういった兄弟姉妹達の精誠をも込められている。御父様に対する想いのみならず或る意味恨みすら込められている。霊界に行って最初に讒訴されるのは日本の食口からだという自覚が自分にはある。皆にはそういった事が見えないらしい。売上を一ドル一ドル数える度にそう言った想いが伝わってきて手が震える。その金が資本となり、テーブルとなり椅子となって店を形作っている。兄弟達の涙と汗が染み付いている。夜になっても兄弟達の想いや恨みが届いて眠れない。そんな話をすると誰もが顔を背ける。私の言っている事はどうも理解できないらしい。何食わぬ顔でビジネスライクに振舞う彼らの方こそ自分には理解できない。
2009年4月10日金曜日
今日の想い 七十一
どれほど責任者が信仰として御父様の願いを受け入れたとしても、責任者にすれば自分ひとりで抱えることは出来ないので、ある意味下に要求を投げる。脅してでも無理難題を下に背負わして七転八倒の苦難路程を強いることが責任者の務めと割り切るなら、その位置に立つ事は自分の器の中には無い。願いを受け入れる事が他の心情を蔑ろにし地獄に追いやる事をも含んでいるのであれば、それをよしとしてハイと言って受け取るのも信仰であり、自分には出来ませんと断るのも信仰なのだと思う。義父が上官の命令で目をつぶり念仏をとなえながら無抵抗な者に銃剣を突き刺したように、自分の本心に聞くことすら許されず、はいと言うことが強要されるのとは違って、正直に自分の所感を述べる事くらいは許されていると思う。否定され怒鳴られる事が問題なのではなく、正直なところを述べてそれでも納得してもらえない、或いは納得できないのであれば引くことも仕方のない事だろう。自分の進退や生活に関わる事柄も巻き込むであろうし、それらをカードにしながら政治的な圧力も内外に働くだろうが、それも致し方の無い事だ。綺麗事とみ旨とは違うことはわかっている。しかしどれ程複雑で醜い感情が渦巻くとしても、その根底に真の父母の愛が流れている事だけは感じ取りたい。それを感じ取れないか信じられないのであれば、自分はその場に居るべきではないと思う。その原因が責任者にあれ或いは自分の内的無知から来るものであれ下す判断は誰でもない自分自身である。自分の内面によくよく問うてこの人事が天から来たものかどうかを見極める。人事を天に任せたと言いながら自分の中に割り切れないものがあるなら、行動や結果に対して責任を転嫁する思いがあるだろうし、そこまで真剣になるのは煩わしい事だと無視しているに過ぎない。兄弟ひとりひとりが自主性を持って受けること断ることができないと言う弱さが、全体的な体質としての弱さもろさになっていないだろうか。自分に直接働く神様であり自分の中に内在する御父母様であるとどれだけ確信しているか。
人間という小宇宙
大宇宙に対して人間一人一人は小宇宙の存在である。太陽系の中で太陽を中心として地球や他の惑星が周回しているように、自我を中心として周回する魂の在り様や、心臓を中心にして血管で繋がれながら様々な臓器が、回っている血液から見るなら周回している。心臓から上部に向かって巡回する血液は、頭部という意識圏、太陽系で言えば地球領域を動作させ外界の印象を受け取っている。心臓から下部に向かって巡回する血液は臓器という無意識圏、太陽系で言えば他の惑星領域を動作させ外界次元に住む為の肉体を維持している。臓器や内部組織が無意識の内に動いているように、太陽系の外的在り様は無意識の内に太陽系の存続在り様に欠かせない作用と緻密さを備えて周回している。人間の臓器の一つや組織が病むなら生命維持に影響を及ぼすように、これらの惑星の一つでも異常が起こったり周回軌道に異変が起こるなら太陽系の存在自体が危ぶまれる。心臓や循環器系が人間として即ち自我としての外的表現であるように、太陽は宇宙自我としての外的表現であり、頭部が意識圏として魂の活動領域を統括しているように、地球は宇宙意識圏として宇宙の魂の活動領域がその役目である。人間という内なる宇宙に魂の病みを抱え身体異常という病を抱えているという意味は、意識圏での活動異常であり、無意識圏では内臓の惑星軌道が正しく作用されていないことによる。魂の故郷である神様に直結する正しい自我から離れてしまって異常な宇宙様相を見せている。自我の表現である循環器系即ち血の在り様が冒されている。人類は血の正しい在り様を求めて彷徨ってきた。宇宙自我であるところの神様が宇宙的行動を進めてきたのが救援摂理であり、人類は真の父母という正しい血の在り様即ち神様に直結する自我の在り様を求めてきた。祝福を受けると言う意味は神への血統転換であり自分という異常宇宙を本来の宇宙の在り様に生まれ変わらせる事を言う。
2009年4月7日火曜日
今日の想い 70
晴れやかな朝のように心が晴れ渡り、高次にある存在への接近と接触が開かれる時がある。逆に雲が低く垂れ込め、濃い霧がかかって一寸先も見通せないほど、自分という存在意識が肉体本能のみにしか向けられない時もある。霊的に重いとか霊的に軽いとかと言うのは、唯の気分の問題として軽々しく捉えられる事ではなく、自分という宇宙の中にどういった霊が関与し働きかけているかに拠るのだが、おぼろげに何となく感じ取れるとしてもその本質を見極めるほどに分別されてはいない。自分の周囲を見渡した時、同じ情景を隣の人も見ているように思われるかもしれないが、人によって見える情景は違う。見る対象は同じものであって同じものではない。見て聞いて、或いは触れたものを意識的に捉える事で見た聞いたと言いそして触れたと言う。人によって意識の度合いは違う。周囲の世界は自分と関係を持たなければ自分に取っては全て幻であり、意識的に捉えたもので自分の周りの世界を認識している。従って意識の届かないところは認識の仕様が無く、周囲を本質的に認識しているとは言えない。御父様の在り様と自分の在り様の違いは意識できる度合いの違いであり、それによる認識の違いだと言う事もできる。認識の違いが余りにも甚だしく、ある時は落胆されある時は激怒される。堕落以降の気の遠くなるような年月を費やして今の意識在り様に至った。創造本然の本来の意識在り様とは違うとしても我々の5%の努力で御父様の在り様に近付ける段階まで来ている。我々を見て御父様は歯痒いに違いない。その5%がどうして超えられないのかと言った思いが表情や行動に表れる。裸になれと言われるように、当然の事として疑う事も無かった意識在り様と認識が、実はサタンによって装着されていた色眼鏡でありフィルターを通して受け取り認識していた事実を認め、捨て去る必要がある。それを自己否定と言う。自己否定すれば誤認で作り上げている自分の世界、自分の居所まで崩れ去る。そこには犠牲にし供え物にすべき感情が伴う。
2009年4月3日金曜日
今日の想い 69
納得できない要求や指示でありながらも有無を許されずハイと答えなければならないと言う強制。何を言っても無駄だろうし言えば余計に複雑になるので言うべきではないという諦め。組織は上から来るものが絶対で下はそれを受け取るだけと言う決め付け。波風を起こしたくないので当たらず触らずと言う無関心。今の生活を脅かされないように敢えて冒険はしたくないと言う臆病。それらがよどんだ様にたまり場となっている組織に神の霊は働くだろうか。活動は続き生き永らえているようで、実は惰性に身を任せているだけの事に過ぎない。止めるのさえ面倒だと言う精神的怠惰が根底にゆっくりと流れている。身体を動かしそれなりに一日を過ごせばみ旨を歩んでいるような気分になれる。その気分で自分を誤魔化しながら毎日を重ねる。日々を追う毎に誤魔化しが当然のこととしてまかり通る。取り敢えず歩みを止めて、自分の良心に問うてみてはどうだろう。自分の中に築かれたものが本当にあるだろうか。御父母様の在り様が自分の中に培われているだろうか。感情が豊かに溢れ出し、瑞々しい魂の活動を確認するだろうか。それとも他の痛みや喜びをどうでもいいこととして避けて通れる、乾き切った魂になっていないだろうか。喜怒哀楽が胸に踊り表情にも表す、そんな人間らしさをみんなどこで捨てたのだろう。村意識と言う集合魂に繋がれ、仲間外れが怖くて周りを見ながら自分の行動をそれになぞらせる。私であるという感覚を失い周りや周りの兄弟に流されながら自分の自主性さえも投げ出して、そこに御父様の為にだとか為に生きるだとかの意志は生まれようが無い。意志の無いところに責任云々を問うこと自体無意味な事だ。先の者が後になっているとの指摘は我々に向けての教訓だと自覚しながら、御父母様の前に自分の愚かな在り様に対して、どう言い訳を思い描けば次に進む事ができるだろうと思案してみる。
2009年4月2日木曜日
今日の想い 68
ある朝の訓読で御父様が、これは簡単ですが非常に貴重な本ですと触れられると、側近の先生が間髪を入れず本当にそうですと返され、それに続くコメントを述べられた時、はにかむような笑顔で受けておられる御父様の表情を見て心に届くものがあった。その表情には御父様の想いを受け止め、共鳴した魂の在り様をはっきりとした声に乗せて、真の師としての御父様に返された事への御父様の喜びが伺える。一生懸命み言を語っておられるのに、顔は向けてはいるがそれに相対できない者達への歯がゆい想いは幾度も表情に表されるが、この時の御父様の表情をかつての記録ビデオや自分の体験に見出すことは出来ない。お年を召されて表情が柔らかくなったと言えるのかも知れないが、心を許し開かれた事からくる御父様の仕草を受け取りながら、この側近の先生を先輩として誇らしくも思い羨ましくも思った。み言への姿勢を正しくし、常にそれを維持しておられればこそ出てくる言葉であり対応であることはその通りだ。御父様との近さが唯の外的な位置関係にあるのみならず、内的位置関係に於いても近いのだと改めて思わされた。多くの側近の先生方や多くの信仰の先輩方にも学ぶところは沢山ある。周りのそういった兄弟達を景色ぐらいにしか認識していなかったのではないかと反省する。一人一人が御父様の血と汗と涙をもってそれを条件に復帰されて今日に至る兄弟であることを理解すれば、それぞれに御父様の何かを魂の奥に備えている。はなから堕落人間の一人だと捉える事は、御父様にはできることであっても罪の多い堕落人間の自分ができることではない。御父母様の前に謙虚であろうとすれば兄弟の前にあっても、その魂に関与されておられる御父母様故に、謙虚であるべきだと思う。
2009年4月1日水曜日
霊界考察 2
人間は物質世界感覚世界に没頭しているので、霊界の存在を感覚世界的に捉えようとする。見えて、聞こえて、感じることが前提で、それで始めて存在すると認識する。人に見えないものが見えるだとか天からの音階が聞こえるだとか、そう言った体験が霊界体験だと捉えて自分は霊的に目覚めていないと思うのかも知れないが、感覚的に見えることと霊視は違う事であり耳に聞こえることと霊聴は違う。この世の物差しであの世を計ろうとする事自体が無理なのだ。見えるだとか聞こえるだとか感じるというのは、一方的に外から内側に届けられ受け取る姿勢であり、この地上界は皮一枚隔てた外の印象をひたすら受け取る世界を言う。しかし霊界の原則として受け取るのでなく働きかけることで活動範囲と言う外界が広がっていく世界であり、見えるのでなく見るという働きかける意志が見させ、聞こえてくるのでなく聞くという意志が聞こえさせる。人間という存在は地上界に生きながら霊界をも生きている。感覚にしろ何にしろ受け取る事だけに没頭するなら暗い霊界の中で生きているのであり、明るい霊界で活動範囲を広げていく為には能動的に働きかける意志を持ち、全ての対象に関わっていく必要がある。為に生きると言う意味も、為に生きようとすれば魂を熱く熱くしながら、対象に強く強く働きかける必要がある。より関わる事でより見えてくるものがある。それは一つの霊的活動範囲を広げた事になる。感覚として受け取るものと、自分から働き関わる事で培うものとの違いをはっきりと認識できれば、地上にありながら霊界への参入、霊界への働きかけも果たしていくことができる。
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