2009年4月19日日曜日

ふたりのイエス

マタイによる福音書にはアブラハムから42代を経てイエスに至り、ルカによる福音書には神からアダム、セツと経ながら77代を経てイエスに至る。わざわざそれぞれの代の名を上げながら42代と77代を記述しているのには深い理由があり、マタイがアブラハムから記述した理由も、ルカが神から記述した理由もあるはずだ。更にアブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンに移されるまで14代、それからキリストまで14代と記された深い理由もある。またそれぞれの系図を辿っていくと決定的な違いを見出すことが出来る。マタイはダビデの次はウリヤの妻に産ませたソロモンとあるけれど、ルカに於いてはダビデの次にナタンとあり、それ以降の系図はそれぞれで違う。聞き伝えによる間違いでありさしてその意味を問うことなど無意味であるかのように思えるかも知れないが、この点を逃すべきではない。聖書である以上、一字一句に意味がある。神学上のいろんな解釈が我々の前に示されてはいるが、自分が納得できるかどうかが問われている。自分が理解したものしか内面に取り込む事はできないし、内面に取り込んだものが新たな判断となって新たな世界に光を照らし内面の知であり叡智となる。聖書に触れながら過去の中近東一帯の出来事を外的知識として得る事、それ自体に差ほど意味は無く、聖書の中に本質の自分を認識し自分を変革する何かがあるかどうかを問うことに意味がある。自分という存在の中に、代々の生き様を通しながらつながれて来たものがある。血の在り様に全てが刻印されて、血の在り様の見える実体として自分という存在がある。逃れようにも逃れられない自分の在り様は二つの流れから来ている。ひとつは外的な在り様から遺伝として繋がれたものであり今ひとつは内的霊的在り様から届けられる霊的自己の流れである。原理的にいうなら協助として示されるものだが兄弟が理解する以上の深い意味が協助の中にはある。この地上界で親や友達の助けを得る、その感覚の幾らか深いもの位にしか理解していないが、実は自分の内的霊的在り様に深く係り自分は協助する霊の生まれ変わりと言っても過言ではない。人間という存在が肉体と霊人体からなり二つの流れの実体であるように、イエスキリストというメシヤとしての地上実体を送り出す為に外的肉体的一つの流れに42代を通して血に刻印されてきたものと、今ひとつの内的霊的流れの中に77代を通して霊の血に刻印されてきたものがある。その二つの流れがイエスキリストという一つの実体になった。神が数理の神であり内外の全ての存在様相に数理が働いているように、7数を中心とした世代を繋げながら、サタン要素が完全に排除された神の理想実体としてのイエスキリストを我々は戴いたということだ。

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