2009年4月2日木曜日

今日の想い 68

ある朝の訓読で御父様が、これは簡単ですが非常に貴重な本ですと触れられると、側近の先生が間髪を入れず本当にそうですと返され、それに続くコメントを述べられた時、はにかむような笑顔で受けておられる御父様の表情を見て心に届くものがあった。その表情には御父様の想いを受け止め、共鳴した魂の在り様をはっきりとした声に乗せて、真の師としての御父様に返された事への御父様の喜びが伺える。一生懸命み言を語っておられるのに、顔は向けてはいるがそれに相対できない者達への歯がゆい想いは幾度も表情に表されるが、この時の御父様の表情をかつての記録ビデオや自分の体験に見出すことは出来ない。お年を召されて表情が柔らかくなったと言えるのかも知れないが、心を許し開かれた事からくる御父様の仕草を受け取りながら、この側近の先生を先輩として誇らしくも思い羨ましくも思った。み言への姿勢を正しくし、常にそれを維持しておられればこそ出てくる言葉であり対応であることはその通りだ。御父様との近さが唯の外的な位置関係にあるのみならず、内的位置関係に於いても近いのだと改めて思わされた。多くの側近の先生方や多くの信仰の先輩方にも学ぶところは沢山ある。周りのそういった兄弟達を景色ぐらいにしか認識していなかったのではないかと反省する。一人一人が御父様の血と汗と涙をもってそれを条件に復帰されて今日に至る兄弟であることを理解すれば、それぞれに御父様の何かを魂の奥に備えている。はなから堕落人間の一人だと捉える事は、御父様にはできることであっても罪の多い堕落人間の自分ができることではない。御父母様の前に謙虚であろうとすれば兄弟の前にあっても、その魂に関与されておられる御父母様故に、謙虚であるべきだと思う。

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