2009年4月20日月曜日

浦島太郎 その弐

二階に自分の部屋があるからと手を引かれるまま上がっていくと、二つの部屋の一つに案内された。ベットに腰掛けると学校でしか見なかったような大きなステレオが目の前にあり、その横に勉強机が備えられていた。ロック好きの彼らしく壁にはその当時流行っていた海外グループの奇抜なポスターが色鮮やかに貼られている。早速練習を始めようと言うことで隣の部屋に案内される。隣は姉の部屋らしい。今まで嗅いだ事も無いいい香りが漂うその部屋は、ベットにしろ棚や箪笥にしろ至る所に白いレースがあしらわれ、見ていると何かしら高揚するものを覚え恥かしくなった。ひときわ大柄のレースに縁取られたアップライトピアノが白いレース模様の下で黒く光っている。彼は階下にいる姉に一声かけると、無造作に蓋を開き課題曲を弾き始めた。自分もそれに合わせて練習する風は装うけれど、意識はそこにはなかった。香りに酔い、床に敷かれた絨毯で足が浮き、目に入る可愛らしい小物や色とりどりの衣服に目が回る。始めて経験する視覚や嗅覚に興奮しているようだ。練習も儘ならないまま集中出来ずにいると、暫くして階下から呼ぶ声が聞こえる。食べてからにしようと言う事で階下に降り、ぎこちなく席に着きながら、ダイニングテーブル一杯に並べられたご馳走を薦められるまま口にした。今まで見たことも無いカタカナ料理に、落ち着いて味わいながら食べるという状況からは程遠く、何をどう食べているのかさえ意識に無かった。初めて会う自分に何のよそよそしさも無く優しく薦める彼の母親や、幸せ溢れる彼や色白の清楚な姉の表情に戸惑いながら、良くされればされる程に、幸せそうに見えれば見えるほどに、これまでの自分には一つも無い環境に彼と彼の家族があることに思いが行き、ある感情が湧いて来る。彼らに対する嫉妬であったのかも知れないが、自分とは明らかに違う世界に住んでいる彼らが遥か遠くの存在に思える。訳のわからない感情に戸惑いながらも食事に対する礼を述べた。一晩世話になり明くる日曜の朝、夜遅くに帰宅した彼の父親にも一言挨拶して彼の家を後にした。昨晩、窓に打ち付ける激しい雷雨を耳にしながら、寝入るとも無く横になって朝を迎えたが、今朝には雨は上がってはいたものの、強い霧に辺り一面覆われていた。日曜の朝早くとぼとぼと歩き、人気の無い駅のホームにあるベンチに腰掛け、深い霧の底に沈みながら、昨日の自分の体験事が何か夢物語か異次元での出来事のように思われる。子供の新しい生活と出発の為にナケナシの貯金をはたいて送り出してくれた田舎の両親に想いが至り、彼らとのあまりの境遇の違いに憤るよりも何よりも悲しく思えた。毎週末にビルの窓拭きバイトを重ねて、やっと手にしたギターを見つめながら、苦しい生活を強いている両親に想いが至らず、身分もわきまえずに華やかな世界に仲間入りを望んでいた自分が情けなくも思えた。弱い風がベンチの下から吹き上げる。霧が舞い上がり両手で抱えているギターから煙が出ているように見える。宮島行きの電車が向かいのホームに流れ込み厳島のお宮へ向かう乗車客が私を見ている。異次元の竜宮城から、目が醒めて帰ろうとしている自分は、彼らの目にどう映っただろうか。向かいの電車が走り去ると、自分を乗せる現実行きの電車が近付いてきた。

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